ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

測定していないといっていた

<福島第1原発>東電、2月からトリチウム水保管タンクの放射性物質測定

 東京電力福島第1原発で汚染水を処理した後に残る放射性物質トリチウムを含む水について、敷地内で保管するタンクの放射性物質濃度を、東電が今年2月から測定していたことが21日、分かった。「タンクの濃度は調べていない」と繰り返してきた従来の説明と異なり、情報公開に対する姿勢が問われそうだ。
 東電は河北新報社の取材に「測っているのは配管でつながった『タンク群』で、タンク一つ一つではない」と釈明。説明の整合性は取れていると主張した。
 処理水は配管でつながった複数のタンクにほぼ同時にためる。東電はタンクにためる直前に加え、過去に貯蔵した処理水もタンク群単位で抽出調査していた。
 8月末までに59タンク群を調査。1リットル当たりの最大濃度はトリチウムが126万4000ベクレル、ヨウ素129が22.44ベクレルだった。本年度中にさらに100群で測定するという。
 東電はこれまで、トリチウム以外の放射性物質の大半を取り除く多核種除去設備(ALPS)の出口で処理水の濃度を計測しているが、タンクは未調査と説明。今月3日の定例記者会見では「政府の要請があれば測定する」との意向を示していた。
 処理水の処分方法を検討している国の小委員会が8月末に開いた初の公聴会も、タンクの濃度測定が未実施の前提で進められた。
 汚染水は、1~4号機の建屋に流入した地下水などが溶融核燃料(デブリ)に触れるなどし、1日200トン前後が発生。ALPSを経た処理水は現在、約93万トンが約690基のタンクに保管されている。東電はタンク建設は容量137万トンが限度としている。(河北新報2018年09月22日土曜日)

 見ない振りはできない。上が平気で嘘をつけば、こんな大企業だって、平気で嘘をつく。隠せるものはなんでも隠す。不誠実、不正直、悪人。

百回噺

 定番になっている得意な話っていうのがあって、多分このメンバーだったらこれまでに話したことがないだろうと、酔っ払ってすると「あぁ、それ、何度も聞いていますよ!」といわれることがままあるんです。それくらい話題に事欠いているってことなんですかねぇ。

 こんなのです。小学生低学年、といっても3年生か4年生になったばっかりの頃でしょうか。友達と野球をすることになっていて、当時、キャッチャーミット(といっても今から考えたら古めかしい、豚革のもの)を持っていた私は、お年玉になんと子供用のキャッチャーマスクを買ってもらったんですよ。なんでそんなものが欲しかったのかといったら、野球はヘタックソだったから、なんとかして目立つ方法を探っていたんでしょうね。学校の運動着ってのはまんま野球のユニフォームみたいだったんで、その背中に、布を切って「23」番の番号にして、縫い付けていました。オヤジの古くなったソックスを貰って、そのつま先と踵を切って野球のストッキングだといって、ちょっと見、それらしく見えるわけです。ガキの頃から格好からはいる奴だったわけです。またいいますが、野球はヘタックソだったのに。

 で、その格好で広場に向かって歩いていたんです。するとそこへ二人乗りしたスクーターが通りかかって「坊や達!野球に行くのかい?」って訊くんです。「そうだよ!」というと、撮影に協力してくれないかというのです。おいおい、今だったら渋谷のセンター街かなんかでナンパの手段に使われていそうな古典的な手法とかいっちゃいそうですが、1955年くらいの話です。で、もうひとりそんなユニフォーム持っている子はいない?って訊きます。お、ユニフォームと認識されたんだ!で、友達のひとりのところへ行って訳を話し、彼も引っ張って、約束した中学校のグランドに行きました。するとさっきのふたりに加えて映画カメラをかまえた人がいました。で、ふたりのうちのひとりがボールを投げるからそれを打って、キミがキャッチャーをやってくれないかというわけです。

 大人が投げる球です。その友達、空振りをします。というか、空振りをしろといったのかなぁ。実はそんなちゃんとした状態でキャッチャやらないです、当時の私たち。何しろなんちゃってキャッチャーなんですから。無我夢中でとりました、ストライクです!それを3-4回やったと思うんです。それで、百円を貰って終わりました。当時の百円は凄いです。さいころキャラメルだったら20個買えちゃったんじゃないでしょうか。私はそれで軟球を買いました。後日連絡が来て、テレビである保健薬のコマーシャルが流れました。「ボクも元気だ!」みたいなナレーション。おとうさんも、おかあさんもこれで元気!みたいな薬の宣伝でした。

 これが私が人生で最初で最後のコマーシャル出演です。これが百回噺のひとつです。

深夜放送

 今の民放の深夜放送はもうすっかり聴かなくなったというか、聴いても何をいっているのかわからない会話ばかりだし、ひどいものはAV女優というかわけのわからない子を連れてきて、下ネタなんてもんじゃない会話をしていて驚いてそれ以来触らない。もっぱら眠れないときはNHKラジオ深夜便だよ。
 けれど、その昔、といっても半世紀ほど昔は受験勉強だといってぼぉーっとSONYトランジスターラジオを机の上に置いて、そのまま聴いていた。それにはちゃんと理由があって、文化放送の旺文社提供大学受験講座があったからだろうな。あれがなかったら、深夜の時間をラジオにとられなくてすんだかも知れないと人のせいにしておこう。
 あまたあったラジオの深夜放送の中でも良く聞いたのは土居まさるや乾信夫かなぁ。高崎一郎や糸井五郎のあのわざとらしい語りが良く引き合いに出されるけれど、私はなんだか田舎くさくって好きじゃなかった。亀とアンコウもすきじゃなかった。亀淵がホリエモンニッポン放送買収騒動の時に社長だっていって出てきたときには驚いた。あんなんで社長になれるのかって。
 当時の深夜放送のスポンサーはいろいろだったけれど、手の届くようなスポンサーだった。土居まさるの番組は確か予備校だった。ニッポン放送に「ラ・セーヌ ヒットソングアワー」というのがあった。タイトル・コールっていうのか、女性がエコーガンガンの中で、張り上げたかと思うと、オープニング曲がなんと行進曲の「旧友」ですよ!これって、ナチスの行進曲です。運動会やってんじゃないんだから!真夜中に!

行進曲「旧友(Alte Kameraden)」
 想像つきます?真夜中ですからね、草木も眠る丑三つ時ですよ!このセンス、どうして良いかわからなくて、概ね聴かずに寝ちゃった。「ラ・セーヌ」というのはどうも新宿にあったジャズ喫茶だっていう。当時のジャズ喫茶といったら普通はいわゆるロカビリーだとか、ハワイアン、はたまたカントリーなんかのライブハウスだったんだから、ラ・セーヌもそんなところだったのかも知れない。私がようやく銀座の「ACB」に足を踏み入れた頃のことだ。

アド街

 土曜日のテレビ東京といったら、「アド街ック天国」でございますねぇ。近頃はほとんど見ないのですが、ぼぉ〜ッとみていたら、横浜だというので随分おおざっぱな話だなぁと思いながら見ておりました。なんたって、来週は深川森下だといっているくらいで、ここのところはかなり限定的に取り上げているというのに、よりによって「横浜」とは大きく括りすぎる。なんだろうなぁと思っていたら、昨日から元町のチャンスセール、つまり大売り出しなんですね。それとタイアップしているってわけです。だって多分「横浜元町」として括ったら、前にもやっているんでしょう。
 FUKUZOだ信濃屋だ、はたまた家族喧嘩別れのキタムラだと元町のお店がこれ見よがしに出て参りました。元町といったら、昔はここくらいしかデートコースで出かけるところがなくて、「港の見える丘公園」から降りてきて、元町で飯を喰う、ってコースを多用しましたね。伊勢佐木町は小綺麗さに欠けているし、当時はまだ横浜駅の西口は高島屋と相鉄名店街で終わり!という雰囲気でした。東京の友達を西口に連れて行ったら「地方都市、そうそう、仙台みたいだね」といわれました。その頃東口は崎陽軒の古いビルがあっただけでした。
 元町でもうなくなってしまったお店がいくつもあります。とても残念なのはワイシャツの店の若松屋です。一度ここで作ればカルテが残っていたものでした。ラウンドカラーのシャツを作ったのはこの店で、当時ここのワイシャツの生地とお仕立て券が贈答品として重宝しておりました。食べ物屋さんではハンバーグの「シェル・ブルー」です。当時はとても美味しいと良く立ち寄りました。どうも最近聴かないと思ったら「ジャーマンベーカリー」もなくなっちゃったんだそうですねぇ。アップルパイ、レモンパイをよく食べた記憶があります。喜久屋よりもジャーマンベーカリーでしたねぇ。The Poppyはまだ健在だそうで、ご同慶の至りでございますが、昔から手が出ない値段で、一度も買い物をしたことがございません。ここで何度も書いていますが、VANの茶系の千鳥格子のジャケットが8,000円だったときに、ここのほぼ同じようなジャケットは8万円していました。とてもとても。
 かつて大桟橋のたもとに英国領事館がございました。今は横浜開港資料館の中に建物が残っているそうです。1970年代にはまだ領事館として機能しておりました。勤務先の工場で英国籍の船を建造していた頃で、船の登録書類に領事のサインが必要で、勤務していた清水からどっさり書類を風呂敷に包んで持っていきました。もちろん事前に電話をしてアポイントメントを取っていくのですが、受付に申し出て、書類を預け、サインをして貰う間、待合室で待っています。総革張りの椅子に腰をかけるとぎゅーっと音がして、慌てて座り直して、また音が出て、まぁ実に落ち着かない、どっしりとした建物でございます。
 この建物の前のビル、二階にSCANDIAという名前のレストランがありますが、当時ノルウェーから駐在でやってきていた船会社の監督ふたりとここに上がったことがあります。かれらはアクアビットを呑んだのかも知れませんが、私はアイリッシュ・コーヒーを飲んだ記憶があります。なんでだったのか記憶にありませんけれど、アクアビットには懲りていたことは確かです。
 あの頃の赤レンガ倉庫近辺は税関埠頭でしたから、私たちが入れるわけもなく、今のようになってから私は行ったことがないので、あのあたりには未だに足を踏み入れたことがありません。
 今の横浜は私が生まれて育った横浜とは大きく変わってしまいましたので、もはやわけがわかりません。何しろ最初のあのあたりの想い出は、桜木町から伊勢佐木町までずっと米軍に接収されていて板塀で囲ってあった、というものだったからです。

天皇さん

 これを書くと嫌がられるのかも知れないけれど、私は天皇制については実はかなり否定的です。だって、あのうちだけずっと絶えずにつながっているっていわれたって、にわかには信じがたいじゃないの?うちなんて、オヤジが次男坊ってところから始まって、うちの子ども達で終わりで、たった三代だ。ま、その前がどうだかわからん。おふくろのうちだって、節三爺さんがいうには家系図を拡げると先祖は桓武天皇だか、なんだか天皇につながっているんだっていっていたけれど、当然この家系図なんて戦後誰かに書かせたものだろうし、そんなんだったらうちだって、世が世なれば皇室だったんだっていっちゃうぞってくらいだ。確か保阪正康の著作に「天皇が19人いた」というのがあったが、特に戦後、様々な自称天皇が出てきたもんね。今でこそ聴かないけれど、昭和の頃にはコントのギャグで「私が本当の天皇だ!」「はい、はい、天皇さん、ご飯にしましょうね」なんつうことを平気でいったもんだ。
 昭和になってから戦争が終わるまで、天皇さんは神様でした。しずしずと皇居を遙拝させられておりましたな。なにしろ天皇さんは白馬に乗っておられました。今度のオリンピックで美味しい目を見ているらしい森喜朗という昔のゴルフ首相はかつて「日本は神の国」といっていた中に天皇さんも入っておったのでしょうねぇ。そういえば安倍晋三はいつの年だったか、イベントで、「天皇陛下、ばんざぁ〜い!」とやったことがあったっけ。
 でも、今上天皇と美智子さんが被災地に出かけてくれると、被災者の皆さんが感動しておられます。涙出して「優しいですよねぇ!」って仰います。軽井沢の駅に町民が押しかけて、日の丸片手に嬉しそうにしておられます。それを見ていると、みんな本当に天皇さんと美智子さんが大好きです。お二人を見ることによって心が癒やされているのがよくわかるのです。
 これ、多分一種の宗教じゃないですかねぇ。いやいや、神道が出てきちゃイヤですが、明チャン・みっちぃー教とでもいいますか、そういうご夫婦だってことではないですかねぇ。これが来年から徳チャン・まぁちゃん教にシフトするかといったら、それはそうはならないでしょう。新しい元号になったらそうはならないんじゃないだろうか。
 だから、彼らは「天皇制を支えている」わけじゃないんじゃないか、と。明ちゃん・みっちぃーファンクラブなんじゃないかと。それで良いんじゃないかと。

徴兵

 1911年(明治44年)生まれのうちの親父が書き残したものを読むと、どうやら彼は二回徴兵されている。一回目の徴兵は未教育補助兵としての訓練を半年にわたって受けたようだ。それからわずか半年後の二回目の徴兵では北支へ行き、かなり動いていたらしい。そういえば、私が40年ほど前にアフリカへ長期出張したときに貰った手紙には、「俺が行った北支の三年半に比べれば、まだ短いだろう」と書かれてあった。オヤジが内地へ帰ってきて除隊したのは1944年の6月だというからまだ太平洋戦争は始まっていない。
 配属されたのは岡山第110連隊だったというが、中隊長が陸士出身の野中次郎(オヤジは二郎と書いているけれど、これは次郎の間違い)少佐としてある。少佐で中隊長というのは頭でっかちだけれど、それは多分二・二六事件の野中四郎大尉の兄だったからだろうと書いている。同じ中隊に高等学校の同級生が少尉で任官している。1938年7月13日に天津近くの河港の塘沽に上陸した。
 とにかく下士官にはなるまい、と心に決めていたんだそうで(そんなことが許されるのか?)海軍短期現役技師の道も断り、工科学校への進学も断り、砲兵として任務に就いていたと書いてある。11月17日には初めての八路軍との戦闘に遭遇した。この戦闘でなくなった二名の兵の遺体を拠点に連れて帰って、通夜をしたそうで、連隊中に坊主の経験を持つものがいて彼が読経をしたという。上等兵になったら月給は十円。
 翌年というから1939年3月、面会が来ているという知らせに行ってみると、それは姉の亭主だったと書いてある。このおじさんのことは私も良く覚えている。岡山の児島で柔道着の生地を織る工場をやっていた。私がまだ小学校低学年の時に遊びに行ったことを覚えている。今だったらそれこそデニム生地でも織っていたのかも知れないが、多分オイルショックの頃に工場をたたんだような記憶で、オヤジが死んでからは全くつきあいがない。そこの子ども達、つまり私の従兄姉にあたるのが5人いた。
 5月になって伍長に進級するという噂が流れたので、同級生だった少尉にならないようにしてくれと頼んだらしい。するとその少尉は「彼は思想的に問題があるから進級させない方が良い」といってくれた由。そこからはもう上がらない。
 (読みながらだからなかなか進まない。ここでしばし、休止とす。)