ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

東叡山寛永寺

f:id:nsw2072:20191207203434j:plain:w360:left 上野のお山といえば、いくつもの美術館、博物館、大学、由緒ある建物が並んでおります。そしてここには「花の雲 鐘は上野か 浅草か」という芭蕉の句にあるように、お寺さんがございます。近頃はそんな気も致しませぬが、かつては確かに朝上野の鐘の音も聞こえてきていたような気がしておりました。しかし、その鐘のもと、寛永寺の歴史も良く知らないし、その本堂がどこにあってどうなっているのかも全く知りませなんだ。


 私がかつてお手伝いをさせて戴いたボーイスカウトの団体は仏教系の団だった。その団体のOB・OG会があってその上野のお山にある豆腐懐石のお店で会食をし、そこからみなさんで東叡山寛永寺の本堂にお参りをし、徳川幕府の将軍の霊廟をお参りさせて戴くという機会を戴いた。
 このグループは昨年は等々力渓谷へ出かけたのだそうだ。私たちは夫婦で30年前から20年前にかけてカブ・スカウトの組についているデン・ダッドとデン・マザーを担当した。(今はもうその制度がなくなっているそうだ)。そこからどんどんこの活動にクビまで浸かってしまい、最後はカブ・スカウト隊の隊長までやった。この9年間は自分たちが若かったこともあったので、正にこの活動が中心になった家庭生活だった。
 会食の時にご一緒したのは、やっぱりそうした組つきのリーダーだった女性の方たちや、女子中学生や高校生の時に組について奉仕してくれた(元)お姉さんたちだった。この団を始めたというのが私たちより一回り上のお寺さんたちだったわけで、そのご縁で、東叡山寛永寺に伺ったわけだ。
 東叡山というくらいで、字の如く東の比叡山を目指して建てられたものがそもそもだそうで、2025年になると創建400年になるそうだ。不忍池が琵琶湖で、その東北に当たる丘、つまり上野のお山が比叡山だというわけだ。だから、ここの本堂も、根本中堂とされている。根本中堂があるのは、もちろん比叡山延暦寺と東叡山寛永寺、そして山形の宝珠山立石寺の三山だそうで、天台宗だそうだ。ということは、私は今回でこの三つの根本中堂を全て訪れたことになる。「本堂」というのはこの「根本中堂」から来ているんだという。大僧正のお話が実に面白くて、膝が痛くてちゃんと座れないまま、一時間を超えるお話だったのだけれど、興味深い話ばかりだった。上野のお山といえば、朝敵となった徳川の戦いが戊辰戦争の一環である上野戦争となって彰義隊が戦った場所。最後の徳川将軍、徳川慶喜は京都から帰ってきて、戦うことはしないとして1868年2月11日に寛永寺に蟄居。なんと慶喜は将軍となって一度も江戸城に入ったことはないという。その部屋がそのまま本堂裏の元の位置に移築されていて、その部屋で大僧正のお話をお伺いした。そして江戸城無血開城の4月11日には慶喜寛永寺を出て水戸へ向かい、引き続き謹慎した後、駿河の宝台院に移って謹慎。その後、慶喜は所用で東京へ来ても東京に宿泊することなく、必ずその日のうちに静岡へ向けて発ったのだという。彼は最後は勲一等旭日大綬章を明治政府から受けているわけだけれど、大僧正曰く、朝敵といわれた立場からすれば、そんなモノを受けなければ良かったのに、と。
 その後は本堂で、30万坪あった寛永寺の境内が3万坪にまで小さくなった経緯をお伺いし、各将軍の墓所、ここでは霊廟と呼ぶ、を見て回る。

追記:実は今まで、寛永寺とか、上野の山って、なんで京都の物まねばっかりやってんだ、と思っていた。

鶴見俊輔

 先日、COREDO室町の本屋、タロー書房で何ということもなく、書棚を見回していると、鶴見俊輔を並べてあるところがあって、例によって「日米交換船」とか、黒川創が書いた「鶴見俊輔伝」、上野千鶴子小熊英二を相手の座談「戦争が遺したもの」が並んでいる横に、随分と小さな、まるで手帳のような本が二冊、それも透明なカバーが掛かっていて、まるでどこかの古本屋のような案配である。なんだろうと手にすれども、中は見られない。「もうろく帖」と「もうろく帖」後編としてある。一体誰がこんな私家版のようなモノを出しているのかと思ったら、例の京都のSUREだ。ここは徹底して鶴見俊輔絡みを出していて、知らないモノがたくさんある。この二冊はどうやら鶴見が他の人が詠んだ言葉を拾い集めてあるモノのようだ。これがそのまま自筆だったら面白かっただろうなぁ。
 その上、「鶴見俊輔語録(2)この九十年」というモノも並んでいる。こりゃ見たことがない。(2)なんだから(1)もあるはずだけれど、見たことがないのがちょと悔しい。鶴見の数々ある著作の中から引用編集してある。編集したのは筑摩書房で「鶴見俊輔集」(これがまた古本屋に滅多に出やしないのだ)の編集を担当した冨板敦という人である。2011年の出版というけれど、皓星社という出版社も私は寡聞にして聞いたことがない。鶴見も書籍は知らないモノがまだまだあるんだよなぁといっていると、つれあいがもう鶴見俊輔本人を知らない人の方が多いんじゃないの、という。そうかも知れないよなぁ。

この九十年 (鶴見俊輔語録)

この九十年 (鶴見俊輔語録)

  • 作者:鶴見俊輔
  • 出版社/メーカー: 皓星社
  • 発売日: 2011/11/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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その場しのぎ

 昔から宿題は最後までやらず、最終場面で泣きながらその場しのぎでやっつけてきた。仕事もそうだった。今回もそうだ。今回というのはなにかというと、カンツォーネといっているボイス・トレーニングのおさらい会だ。最後の最後まで歌詞を覚えていない。

 どうやらその場を凌ぐことはできたようだ。しかし、凄い人がいるもので、みんなの認識を遙かに超え、ピアノの方に楽譜を示し、突然、ソロで唄う。周辺を出し抜いて勝手に唄うというのは些か乱暴に過ぎる。それでも誰も本人には文句を言わない。私もいわない。黙って下を向いている。それであの人は憂さが晴れたんだろう。
古希過ぎて なお憂さ晴らす 人模様

日比谷公園

 意識して日比谷公園を訪れるなんて、いったい最後はいつだったんだろうか。多分3.11からそれほど経たないころにあった原発再稼働反対デモに連なった頃のことかも知れない。
f:id:nsw2072:20191205205017j:plain:w360:left 地下鉄から日比谷駅A10の出口をあがってきてひょいと日比谷公園の横の通り、すなわち日比谷通りに出ると柵の内側にこれまで気がついたことがないモニュメントがあって、上に誰かさんの胸像が乗っている。下には「東洋の偉人 ホセ・リサール博士記念碑 東龍太郎書」と書いてある。誰?
 もう一枚の銘板には「社団法人日本リサール協会 東龍太郎、神保信彦、木村毅、比国駐日大使マヌエル・アデバ Rizal Society of Japan」としてある。東龍太郎というのは前回の東京オリンピックの頃の東京都知事で、私も覚えている。神保信彦というのはウィッキペディアに依れば「第二次世界大戦中にフィリピン第三共和国の初代大統領となるマニュエル・ロハスの生存に貢献した」ということだが、初耳だ。「戦後は日比親善交流に奔走し日比友好協会(日本リサール協会)設立にも貢献した」と書いてあって、ここで期せずして日本リサール協会が日本とフィリピンの友好協会のことだと判明する。そこで木村毅だけれど、どうも文学者である。この人の作品の中に「『ホセ・リサールと日本』アポロン社 1961」というのがある。縁浅からぬところを感じるわけだけれど、それをいったら、彼は様々な人のことを書いているから、だからどうしてもここに登場する意味があるのかどうかは当時の世評を調べてみなくてはわからんだろう。
 さて、そのリサールさんだけれど、いつものウィッキペディアに聞いてみると、フルネームは「ホセ・プロタシオ・メルカード・リサール・アロンソ・イ・レアロンダ (Jose Protacio Mercado Rizal Alonzo y Realonda,1861年6月19日 - 1896年12月30日)」と書かれている。
 公園の中に入って前に回ってみた。すると「フィリピンの国民的英雄ホセ・リサール博士1888年この地東京ホテルに滞在す。1969年6月19日建之」としてある。実は6月19日というのはリサール博士の誕生日である。それで東京ホテルなんだけれど、これまたネットで検索したら簡単に見つかるだろうと思っていたら、いやさにあらず。全くヒットしない。様々なキーワードを駆使していたら、こちらの方のサイトに到達。どうもこのホテルは日比谷公園の敷地に建っていたわけではなくて、堀の外側、つまり三信ビルがあった側に建っていたらしい。しかも、このフィリピン独立の志士、リサール博士は東京ホテルには予定では二泊ほどだったらしいのだけれど、結果的に40日ほど滞在し、その理由は日本人女性にあったらしいという、15カ国語に長けていた天才としては非常に人間らしくて微笑ましい。
 1961年といえば東京オリンピックを前に正に日本が戦後の苦しい状況から脱しようとしていた飛躍の時代ではないか。
 公孫樹の黄葉を見に行くつもりだったのに、面白いモミュメントに遭遇してしまった。

公私

f:id:nsw2072:20191205005406j:plain:w360:left 安倍昭恵という人は政府が閣議で「私人」だと決定したくらいの公的な存在ではないと云うことになっているんだけれど、それでも公的催し物に自分の知人を百数十人も招いていたんだと暴露されちまって、すっかりおかしくなっている。
 世の中どこへ行っても公私の区別をつけることができないという人は当たり前のようにいるんだけれど、それは本人が意識してやらないと、なぁなぁになってしまうんだということなんだろう。それでなくてもある程度の権力を持った人間はそれを意識してやらないと、廻りのいわゆる「忖度好き」で、それで取り入って自分が将来的に美味しい目を見ようとする「小物」に載せられて、結果的に区別のつけられない人に容易になってしまう。

 例えば、テレビのロケ番組なんかを見ていると、現場で訪ねていった町の人はカメラの前で良いところを見せようと、なにかをくれたりする。「いや、すみませんねぇ、そうですかぁ・・」といって貰っちゃう。これも公私の混同の第一歩だろう。

 新聞記者を数社の人を連れて工場を見て貰うという仕事にいったことがある。当然交通費がかかり、宿泊費がかかり、食費がかかる。ほとんどの社の人はその取材先の企業と揉めるのも嫌だからそのままそのルートに乗る。ところが某社だけはそうであってはいけないという社是があるんだそうで、当日交通費を持ってきた。驚いた。見上げたもんだと思った。ところがその社のいわゆる部長という人は公私の区別のできない人で、日頃からペンの力を勘違いしている行動をとる男で業界では有名だった。

 会社の中でもそんな混同男はいくらもいた。取締役になったその年に、私の長期駐在先に家族連れでやってきた男は、近隣地区になぜかホームステイしている息子を訪ねて遊びに来たといいながら、週末に私の家に突然電話をしてきて「今いるホテルから、どこそこへはどうやっていけば良いのかね?」と聞いてきた。利用するべき公共交通機関と、その利用に際して注意するべきことをその場で答えた。翌週事務所に出ると、所長から、なんで電話が来たら駆けつけてご案内しなかったのかと聞かれた。答は簡単だ、私は休みだったからだ。そんなことは遊びに来るくらいなんだったら、ちゃんと調べてこい。週末になる前になんで相談しなかったんだと思った。週末なのに申し訳ないけれど、2-3時間、手伝ってくれないかとでもいわれていれば、不承不承いっただろう。突然電話してきて、自分の思うようになるべきだという、その思考形態がまず気に入らない。
 翌週事務所にモノを送ってきて、ホームステイしている息子に渡してくれという連絡が来た。なんで自分で直接息子に送らないのか、この男の考えが全く理解できなかった。
 もちろん仕事でお客を連れてやってきた同僚の場合は、日本のお客の扱いをそのまま踏襲して、朝から晩までそのグループにくっついてヨイショした。それで彼の仕事が巧くいったかどうか知らないけれど。

 ことほどさように公私の混同がわからない人間は溢れている。だから昭恵もこれらの行動のなにが間違っているのか、全くわかっていない。夫が主催するパーティーに自分の友人を招くことがどうして追求されなくてはならないのかがわかっていない。だいたい夫が主催しているのではなくて、内閣総理大臣が主催しているということがわからないのだろう。

 勤め人の半分近くを非正規雇用にしてしまっている現状で、もう「社員は家族だ!」なんてかつての出光興産みたいなことをいっている企業はあり得ない。そのはずなのに、意識は切り替わっていないってことだ。

揺れた

 昨日の朝10時38分ころの地震震源茨城県北部(北緯36.8度、東経140.6度)で、震源の深さは約10km、M4.8 これはすぐさま地震とわかりました。会議室の机の下に入ろうかと身構えました。建物のせいか、小刻みにブルブルと震えました。だから、その後本心が来るんじゃないかと身構えました。
 で、今日も夕方になって揺れたんですが、気象庁地震速報のサイトを見て驚きました。
昨日の地震の後、北関東を震源とする地震が続いているんです。

  • 4日10時50分ころ。震源地は同じで連続的に。M3.5
  • 4日12時01分ころやっぱり同じで、M2.6
  • 4日13時27分ころ震源がちょっとずれただけ。M3.7
  • 4日17時57分ころ、震源ほぼ同じで、M3.2
  • 4日18時13分ころ、震源地はほぼ同じで、震源の深さ50km、M4.0
  • 4日19時35分ころ、震源地はほぼ近く(北緯36.9度、東経139.7度)、震源の深さ約10km、M4.7

ブルブル少しずつ震えているというのはストレスが発散されているので大地震に至らないということなのか、それとも大きく地層が動く前兆なのか。

 われわれは「あ、揺れた!」なんぞとSNSに書く程度だけれど、地震のない外国から来た人たちは相当に焦っているんだろうなぁ。