ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

素晴らしい国

 フィンランドの新しい首相はなんと34歳の女性なんだそうですねぇ。いや、前々から北欧の4カ国は確かに物価は高いんだけれど、それだけ様々な社会的制度が充実していて、暮らしている人たちの意識の高さに感嘆していたんですが、今度のこのニュースには度肝を抜かれてしまいましたよねぇ。それでも、もう34歳にもなると、世の中のほとんどのことはわかっていてもおかしくないわけですから、驚くことの方がおかしいのかも知れませんよね。
 とことん、状況が違いすぎることに驚きの念は隠せないけれど、隠す必要もありませんね。70歳も80歳も超えても、まだ低次元な倫理観に基づいた政治を放りっぱなしにしているよりはなんぼか「前向き」ですね。

つらい準備

 明日の検査の準備で今日は朝から病院から渡されたものを食べ、水をい〜っぱい飲まなくてはならないそうだ。つらい一日の始まり。
 与えられたレトルトを温めて食べるごとに水を500ml以上呑みなさいと書かれている。日頃から水分摂取量が少ないといわれているので、呑むのもつらいけれど、お腹がぱんぱんになって昼寝もできかねる。

CANON

f:id:nsw2072:20191209033534j:plain:w360:left キャノンが全く新しいコンセプトのカメラを出しました。ウェアラブルカメラ「iNSPiC REC」といっています。instant(インスタント)・picture(ピクチャー)・inspiration(インスピレーション)を絡めた造語だと。
 ファインダーも、液晶モニターパネルもついていません。横の枠であたかも指でフレームするようにしてシャッターを押すんだといっています。で、この枠がカラビナみたいに開くので、それでストラップなんかに絡めておくといってます。カメラを持ったことがない世代にアピールするってことらしい。だから価格も1,5万円ほどなんだけどさ、この世代ってみんなスマホで写真撮っているでしょ?だったら今更こんな単機能のカメラを買う?
 スマホは「取り出す」という一手間があるけど、これだったらカラビナ上にストラップに止めて、それを外すだけだ、というんだよねぇ。「外す」というワンステップがあることは同じだね。新たにかまえる、という行為に手間があるのであって、ここをスキップするんだったら、眼に同期するカメラを開発しないとダメだと思うんだよね。

村八分

 言葉として聞くと、これは相当に怖ろしい。陰湿だ。周囲が孤立させて干し上げてしまい、いたたまれなくなる。しかし、この「八分」ってのはなんだ?十分干すんじゃないのか?鶴見俊輔が書いているのを読んでビックリした。残りの「二分」というのは、田んぼの水利からは外さないということ、そして、そして葬式の時は手伝うことだというのだ。だから、欧州の魔女裁判とは大きく異なるんだというのだ。
 そしてイギリスには選挙に負けた時に「われわれは少数派だ、だけれども大きな少数派なんだ」という意識があるという。多数派になったからといってなんでもやれる、と云うわけじゃないんだという。
 今のこの国では、選挙に勝ったら、何でもかんでもやりたい放題だ、数の論理だ、多数派が「これで良いんだ」といったらなんでも、ルールを度外視しても良いんだという風潮は実に幼稚な考え方であって、人智をないがしろにした考え方なんだというわけだ。
 多分、今の自民党公明党(維新は取るに足らないが)はこんなことを思ったことすらない。

 明治革命になって、徳川幕府に代わって、明治政府ができた。しかし、薩長土肥の明治政府を構築した連中はみな、各藩の下級武士だった。だから、政府を運営するノウハウも才覚もないから、しょうがない幕府を固めていた連中を抱えるしかやりようがなかった。と昨日お話を伺った寛永寺の大僧正が仰っていた。
 しかし、幕藩体制というのは、社会そのものが小さかったわけだから、頼りになる人間がすぐさまわかったけれど、明治になって社会がドッと拡がったら、それがわからなくなった。それが問題だったんだと柳田国男がアジア太平洋戦争に負けてから中野重治に語って共鳴を受けたと、これもまた、鶴見俊輔がいっている。

 そういえば、今日は「太平洋上において戦闘状態にいれり」となったその日で、あれから78年になった。

東叡山寛永寺

f:id:nsw2072:20191207203434j:plain:w360:left 上野のお山といえば、いくつもの美術館、博物館、大学、由緒ある建物が並んでおります。そしてここには「花の雲 鐘は上野か 浅草か」という芭蕉の句にあるように、お寺さんがございます。近頃はそんな気も致しませぬが、かつては確かに朝上野の鐘の音も聞こえてきていたような気がしておりました。しかし、その鐘のもと、寛永寺の歴史も良く知らないし、その本堂がどこにあってどうなっているのかも全く知りませなんだ。


 私がかつてお手伝いをさせて戴いたボーイスカウトの団体は仏教系の団だった。その団体のOB・OG会があってその上野のお山にある豆腐懐石のお店で会食をし、そこからみなさんで東叡山寛永寺の本堂にお参りをし、徳川幕府の将軍の霊廟をお参りさせて戴くという機会を戴いた。
 このグループは昨年は等々力渓谷へ出かけたのだそうだ。私たちは夫婦で30年前から20年前にかけてカブ・スカウトの組についているデン・ダッドとデン・マザーを担当した。(今はもうその制度がなくなっているそうだ)。そこからどんどんこの活動にクビまで浸かってしまい、最後はカブ・スカウト隊の隊長までやった。この9年間は自分たちが若かったこともあったので、正にこの活動が中心になった家庭生活だった。
 会食の時にご一緒したのは、やっぱりそうした組つきのリーダーだった女性の方たちや、女子中学生や高校生の時に組について奉仕してくれた(元)お姉さんたちだった。この団を始めたというのが私たちより一回り上のお寺さんたちだったわけで、そのご縁で、東叡山寛永寺に伺ったわけだ。
 東叡山というくらいで、字の如く東の比叡山を目指して建てられたものがそもそもだそうで、2025年になると創建400年になるそうだ。不忍池が琵琶湖で、その東北に当たる丘、つまり上野のお山が比叡山だというわけだ。だから、ここの本堂も、根本中堂とされている。根本中堂があるのは、もちろん比叡山延暦寺と東叡山寛永寺、そして山形の宝珠山立石寺の三山だそうで、天台宗だそうだ。ということは、私は今回でこの三つの根本中堂を全て訪れたことになる。「本堂」というのはこの「根本中堂」から来ているんだという。大僧正のお話が実に面白くて、膝が痛くてちゃんと座れないまま、一時間を超えるお話だったのだけれど、興味深い話ばかりだった。上野のお山といえば、朝敵となった徳川の戦いが戊辰戦争の一環である上野戦争となって彰義隊が戦った場所。最後の徳川将軍、徳川慶喜は京都から帰ってきて、戦うことはしないとして1868年2月11日に寛永寺に蟄居。なんと慶喜は将軍となって一度も江戸城に入ったことはないという。その部屋がそのまま本堂裏の元の位置に移築されていて、その部屋で大僧正のお話をお伺いした。そして江戸城無血開城の4月11日には慶喜寛永寺を出て水戸へ向かい、引き続き謹慎した後、駿河の宝台院に移って謹慎。その後、慶喜は所用で東京へ来ても東京に宿泊することなく、必ずその日のうちに静岡へ向けて発ったのだという。彼は最後は勲一等旭日大綬章を明治政府から受けているわけだけれど、大僧正曰く、朝敵といわれた立場からすれば、そんなモノを受けなければ良かったのに、と。
 その後は本堂で、30万坪あった寛永寺の境内が3万坪にまで小さくなった経緯をお伺いし、各将軍の墓所、ここでは霊廟と呼ぶ、を見て回る。

追記:実は今まで、寛永寺とか、上野の山って、なんで京都の物まねばっかりやってんだ、と思っていた。