ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

馬鹿なわけじゃない

 ブラックバスブルーギルがここまで全国的に蔓延していることを考えると、かつてブラックバスの存在が認識された頃に「この外来種が日本の古来種を駆逐するという説には証明するものがない」と言い訳していたことが全く意図的なごまかしであったことが明らかとなっている。誰がどうひっくり返してみても外来のこの肉食魚が日本の淡水魚環境をぶち壊してしまったことは明らかだ。
 しかし魚は自分で歩くことができない。その代わりに水路で繋がっているところだったらどこにでもその生息範囲を拡げることが可能になる。繋がっていないところなら、人が放流しなくてはその生息範囲を拡げられない。つまり、人が彼らの蔓延に手を貸している。淡水域に暮らす日本固有種が減少する。この場合他の野生動物の減少を招き絶滅に直面するにいたる状況と何が違うのかというと、ただただ自分の楽しみのためだけに彼らを殲滅せんとしている点だろう。つまり自分が楽しければよいのだ。極端なことを云うとロボットの魚であっても良いわけでなんら創造的なことを彼らはやろうとしているわけではない。
 「彼ら」とはどんな種族かというと、釣り、それもルアーの釣り、それも暴れる対象魚を、食べる目標もなく、に熱中するという非常に限定された種族なのである。自らのただ単なる遊びのためだけに日本全国の淡水域に豊富に生きていた固有種を全滅に追い込んでいるという誠に傍若無人な種族である。
読売新聞の岐阜版にこんな記事が掲載されていたそうだ。

自然保護団体が外来魚を駆除した関市の農業用ため池で、外来魚のブルーギルが新たに池に放流されていたことが、保護団体の調査で明らかになった。池の周りには釣り糸や釣り用のルアーが見つかっている。保護団体では「貴重な魚を減らす外来魚の放流は、絶対に許せない」と憤っている。
2006年10月に池を干して、ブルーギルブラックバスといった外来魚を駆除した。
 同年12月には小学生を招いて、ウシモツゴ4000匹を放流した。その後、1か月ごとに池の調査をし、ウシモツゴは順調に繁殖を続けていた。
そこで、今年2月に水を抜いて生き物を調べたところ、ウシモツゴを捕食するブルーギル約7000匹が発見された。放流されたウシモツゴ4000匹は、752匹に減っていた。(2008年4月1日 読売新聞)

 この記事を読んで「ひどいことをするなぁ」という印象を持つ。ばらまく方は他の池で釣ったブルーギルをそのままここに持ってきてぽぉ〜んと放り投げるだけだけれども、駆除しようとすると池の水を抜いて、とっておきたい魚を確保し、分別しておいて他を駆除し、また水を満たすという、まるで永遠に続くかと思われる様な作業を続けて漸くこれを排除することができるわけだ。駆除作業とウシモツゴの放流を実施した二つの団体の参加者の徒労感は並大抵ではないだろう。彼らは「人殺ししているわけじゃなし」程度にしか多分思っていないだろう。「日本の自然を守ろう!」と主張する人たちを「うぜぇんだよ」程度にしか思っていないだろう。それが人を殺すと同じ罪を犯していることに想像が至らない。いや、そこまで想像したくないんだろう。
 しかし、そうした身勝手な行為に及ぶものたちには道徳的な価値基準をもって説得してもなんの効果も生まないだろう。どんなにキャンペーンを張ったところで、彼らは聞く耳を持たない。本当のところが「そんなことを云うんだったら、その魚は大事にするんだってんなら、人間のこの俺らのことも大事にしろよ、してくれよ、頼むから見てくれよ」という気持ちがあるのではないだろうか。もしそうならまだ見込みはあるかも知れない。しかし、ことここに至るともうそんな余裕を考えては貰えないか。馬鹿なんじゃないんだ、そんなことどうでも良いやと投げているってことか。
 実のところを云うと釣りという趣味は金をかけずに楽しもうとするとそれなりに楽しむことはできる。その反対に金をかけようとするとどこまでもきりがない。しかもルアーの釣りが知識として日本に入ってきてからというもの面倒くさくない釣りになってきた。まず餌が要らない。それでいながら様々な種類のルアーがあって、それをとっかえひっかえ試し、どれがどんな動きをしてどこの池のどこではどんなルアーが有効だったのかという議論ができるという誠にゲームそのものの釣りだ。なにしろこの種の釣りには「ゲーム・フィッシング」という言葉があるくらい。狩猟の世界にも「ゲーム・ハンティング」という言葉がある。食べるわけでもない、危険が迫るわけでもないけれど、追い回して撃ち殺すということに楽しみを見いだすのである。豪州ではわざわざそうした遊びのために欧州から持ち込んだハンティング・ターゲットが蔓延して様々なことを引き起こしている。人間はこうしてみるとどこまで行っても学習すると云うことを知らなくて、いたずらに余計なことを引き起こすものなのだろうか。何十年後、何世紀後には日本固有の淡水魚種はこうして絶滅したんだと歴史の書に残されることになるのだろうか。
 ここでこんなことを書いたとしてもそうした「愚かな」ブルーギル放流者はどこ吹く風とルアーを振っている。法的手段に訴えるしかないと云うことなのか。そんな時間と金をかけることはできないのだからと時間の経過に任せるしかないのか。「違反した場合、個人には3年以下の懲役や300万円以下の罰金、法人には1億円以下の罰金」と特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律では規定されているけれど、果たしてこの法が適用された例があるのだろうか。
 こんなことならやっぱり鎖国していれば良かったなぁ。それならアメリカからこんな馬鹿げた文化が入ってこなくて、良かったのかも知れないじゃないか。ブンワン文化も含めて、グローバライゼーションも含めて、余計なものもたくさん入って来ちゃったものなぁ。全然自由も民主主義も分かっていないくせに「自由」やら「民主主義」やらの言葉を間違えて振り回す政党を生み出したのも、みんなアメリカから馬鹿げた文化が入ってきてしまったからなんじゃないのかね。稲田何タラ議員の日本外国人記者クラブの会見も聞いてみるとそんな言葉が羅列されていて、そんな論理からどうして一本の映画を追い込むことができるのか、不思議だけれど、あの人はもともと弁護士だと云うからその辺はきっと上手いんだろうね。「自由」で「民主的」な国家もそろそろ危機を迎えているのかも。

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 全国の新聞がかき立てているらしくてGoogleのニュース版を見るとこの記事はたくさん拾える。ここでは敢えて産経新聞(2008.4.3 12:40 靖国、関西の2館で上映の方向)から。

 偉いっ!見に行こう!・・でも第七藝術劇場のサイトの公開予定にはリストアップされてないなぁ・・。しかし、この映画館のラインナップを見ているとなんだか70年代のアートギルドの様な気分になってくる。大駱駝艦だ、唐十郎だと、連合赤軍とくるとどうしても新宿・風月堂が繋がってきてしまう。たまたまそんなラインナップなのかね?

さがしているんだかなんだか

 粟屋憲太郎の「東京裁判への道」を取りだして見ているうちに日暮吉延の「東京裁判」を見たくなり、持ってきているうちに、大沼保昭氏の「慰安婦問題とは何だったか」が確かあったはずなのにと思ったのだけれど見あたらない。確か中公新書だったはずだ。
 そうこうしているうちに目の前にあった鶴見俊輔座談第八回配本「民主主義とは何だろうか」を手にしてしまった。で、この中の井上ひさしとの対談を読み始めるとこれがとても面白い。ところがこの座談の初出を見るとなんと雑誌「終末から」の1974年4月号だというのである。なるほど、『終末から」の第6号の巻頭でこの対談が掲載されている。イラストは南伸坊だ。
 こうなるとまたまた今度は『終末から』を取りだしてつまみ読みをすることになる。この頃私は静岡県清水市に暮らしていたはずで本やといったらあの『戸田書店」しかまともなものはなかったはずだ。それにしても良くこの9号しか出なかった雑誌を全冊購入していたものだ。こんなことをしているときりがないのだ。で、結局大沼保昭の著書が見あたらない。
 『終末から」1974年4月号通巻6号に小田実がこんなことを書いている。

世の中、まちがっている。
私たちは、今、思っている。思っているなら、今、声に出す。
世の中、つくり直しだ。
私たちは、今、思っている。思っているなら、今、する。
それが「世直し」だ。