ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

日本の捕虜政策

1945年9月19日づけ The Canberra Timesに出ていた小さな記事。

 マニラから帰ってきたGordon J Bradenによれば、日本軍捕虜収容所では家族から送られてくる手紙も、捕虜達が書いた家族宛の手紙もすべて日本軍は焼き捨てていたんだという。

 ここにはその時の捕虜収容所の責任者の名前も書かれている。その下には泳げない者を沖に持っていった船から無理矢理飛び込ませた、ということも書かれている。誰がどこで発言したのかについての詳細なバックデーターがあるわけではない。ないけれど、こうした繰り返しの記事はどんなに激しい恨みを買ってきたのかということの証明でもある。

 わが家では40年前に結婚した時に新調した象牙の夫婦箸があって、それを未だにずっと使っている。多分他人が見たら、変な箸だなぁと思われるくらいに年季が入った箸だ。いつも洗っては先を上にして洗いかごの横に差してあるからか、根本の方が茶色く変色してきている。今だったら、こんな象牙の箸なんかワシントン条約違反なんだろうが、当時はそうではなかったはずだ。多分嫁入り道具のように持ってきたものだと思う。

懐古談

 え〜っとなんでこんな話になったのか、記憶にないのだけれど、昔は学校でどこかに出掛ける時、例えば修学旅行や、林間学校に行く時にはオフクロが縫った布の袋に米を何合と持ってでかけた記憶がある。当時は米が配給だったからだろうなぁ。で、様々なものをオフクロが縫った袋に入れていた。給食の時の食器はそんな袋に入れてランドセルの横にある紐に結んでいたから、走るとそれがガチャガチャ鳴ったものだった。算盤もオフクロが縫った袋に入れていたっけ。そのくせ上履きは市販のビニールでできた上履き入れだったなぁ。オフクロの手による布袋が大活躍だったのだ。

あの冬も厳しかった

1945年9月13日(木)のキャンベラ・タイムスの記事を見ていたら、そのお目当ての記事の隣にあった記事が1944年の日本の冬はかなり厳しい冬だったという書き方をしている。本当に44-45年の冬シーズンはいつもの年に較べたら寒かったのだろうか。戦時捕虜となっていたオーストラリア人が偶々厳冬と感じた、というわけではなかったのか。多分いろいろな人たちの日記を見たらわかるのかも知れない。そういう見方をしたことがなかったなぁ。

地震

 富士五湖周辺を震源地とする地震が朝から何回も揺れた。「あぁ、揺れたね!」といってテレビで地震情報を読んでいる間にまた揺れるという状態。これはちょっと異常事態だ。といっているうちに今度は青森だといっている。良くまぁ、こんなところに1億2千万を超える人数が暮らしているもんだと、ほとほと感心する。引っ越したい。どこか地震のない国に引っ越したい。