ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

写真

 例えば旅行代理店が組んだ団体旅行に参加したとすると、あるポイントに到着すると、みんながみんな、手に手にカメラを持っていて、ばらばらっと降りると、構えます。私なんぞ下手をすると一日に百枚以上撮ります。それでも「あぁ、なんであそこをとってこなかったんだろう!」と悔やみます。
 カメラで写真を撮ることばかりに夢中になって、こころの目で見ないンだから、と良くいわれます。うちのつれあいなんぞもそういっていて、まったく写真を撮りません。何しろカメラを持って行きません。
 ところがぎっちょんなんであります。写真を撮ってあると、あとからそれを整理するために、あぁ、ここはなんだっけと復習をすることになるのです。これが重要です。その結果、旅はすべての面で心にとまるのです。心にとまらないのは多くの場合、固有名詞だけです。こればっかりは認知症気味の爺さんにはなかなか難しいのでございます。

米国テレビドラマ

 わが家のテレビは主につれあいが楽しんでいるアメリカテレビドラマ、それも推理もの、サスペンスもののためにあって、私がパソコンの前に座り続けているのに疲れて居間にいってみると、必ずこういう類いの番組が流れている。
 こっちは断片的にしか見ないので、どんなことになっているのか訳がわからない。しかし、概ね一話完結型になっているので、最初から見ればそれなりに解釈することができる。
 しかし、この種の番組で閉口するのはかなり生々しい場面をどんどん平気で出してくることなのだ。例えばCSIなんかにしたって、証拠物件を検証するのに、殺人被害者の検視場面で平気で死体が大写しになったり、昨日のなんだかタイトルを忘れた番組なんぞだと死体の臓物が大写しになったりして、不愉快極まりない。こんな場面を平気で見ている視聴者の気が知れない。おまえは解剖医なのか!だから私はこんなテレビは見ない。性格がねじ曲がるぞ!

公共交通機関

 残念ながら日本の鉄道はどんどん廃れる方向へ来てしまいました。国鉄を廃止して、鉄道を根幹的なインフラストラクチャーとして扱うことをやめてしまいましたから、こうなることは自明の理であったわけです。こうすることによって何が起きてきたのかといえば、鉄道から自動車、それも公共交通機関ではなくて、自家用車に置き換えられる結果となりました。これで、利用者の個別の好みが選択できるようになった、といえば聞こえは良いのですが、実際には自動車メーカーと、その高価な価格を負担するために利用せざるをえない金融機関の利益を向上させることになったといっても良いのではないかと思います。
 勿論こうして日本の産業が盛んになれば、世の中が良くなるという日本政府がお得意の既に破綻してしまった論理があたかもそれらしく聞こえるようにマスコミも煽りますから、赤字を垂れ流す鉄道は要らない、ということになってしまいます。
 しかし、これも実際には年寄りと子ども、そして貧乏人をその論理の中からはじき出していくということに他なりません。ならばどうするのか。ここの自治体がその自らの小さな範囲の中で細々と何らかの支援策を考えるしか方法がなくなってきています。そしてそれは結果として都市への集住をより促進する結果を作り出します。つまり、地方の衰退に加速がかかるということでもあります。

2015年07月25日のツイート