ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

靖国

 昨今、この問題に触れると直ぐにいろいろなことが起こるから手も触れずにいる。しかし、昨日開けてみた朝日新聞社発行月刊誌「論座」2月号98頁に「小泉首相の倫理的資格を問う」と題した一文が掲載されている。著者は西岡朗といって元防衛庁防衛研究所研究部長を務めていた人。現職としてルーテル学院大非常勤講師と書いてあるところが驚き。西岡氏は中曽根の最初の参拝の仕方がとんでもなく礼を失した、話にならないやり方であり、小泉が2003年1月28日に予算審議会で質問に答えた発言が昭和天皇に対する当てこすりであり、保守主義の立場からして許し難いものであるといっている。不勉強で実に情けがないと自己嫌悪にまたまた陥っているのであるけれど、A級戦犯の合祀は1978年のことであり、それまでに昭和天皇は敗戦後も1975年までに8回参拝されているそうである。A級戦犯とB/C級戦犯との違いはどこにあるかといえば、その道に走らせたものと、走らされたものとの違いでこれはいうまでもなくとてつもなく大きいというのである。
 つまり「国を守る」という大義名分をたたき込まれ、頑なにその道を走った人たちには感謝をしなくてはならないが、その道にその人たちを、そして国民を走らせた指導層になぜ、感謝をするとしてここに祀って英雄視しなくてはならないのか、と力説されている。
 この話を読んでこれまで自分の中で整理されていなかったことが突然スルスルと整理されてきたような気がする。だからこそこの人たちには「二度と同じ過ちをしませんから」と許しを請うのではなかったか。それなのに、A級戦犯であった男を戦後数年にして首相の座を与え、国を託し、あまつさえ勲章まで与えてきたのが米国お追従のはっきりいってしまえば米国の傀儡政権であったわけである。今のままでも十分傀儡政権だが、それは敗戦のあの時から完璧なまでの傀儡政権だったんだから仕方がない。今年は「戦後60年」であり、この言葉があちこちで語られる。すでに二世代分の永きにわたってきており、「戦後」を頭につけて語られるのはそろそろ終わりじゃないか、と云う人もいるが、傀儡政権が続く限りは「戦後」は終わらないと云うことではないのだろうか。
 私のチーフ公僕が嬉しそうに、それでなくても細い眼を一層細めて彼の地の番長と手を握りあっている写真は見るに忍びない。非常に屈辱感を覚える。ここまで卑屈にならなければわたしたちの国は生きられないと、市井のひとりがいっているのではなく、私のチーフ公僕がいっているのだ。