ほぼ足りてまだ欲 その先

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南極観測

 昨年末に発行された「週刊新潮」04.12.23号の中吊り広告を見ていて気になる記事があった。「南極観測船「宗谷」はスパイ船だった!」というものである。南極観測船フェチの私としては大いに気が揉めた。宗谷が観測船として従事していたのはそれほど永いことではない。その短い期間にスパイ船として活動していたなんて想像も出来ない。東西冷戦の中でソ連接触したというのはあのオビ号によって救出されたこと位しか考えられないからである。しかし、週刊新潮はその前週だったか前々週号でいい加減な記事を書いていたので(まぁ、週刊誌なんてそんなもんだよといってしまえばそれまでなわけだけれど)、金を出して買う気に到底なれなかった。どこかその辺に転がっているだろうと思った。ところがそうならない。で、近所の図書館に行った。最新号は貸し出しをしないけれど、next to 最新号、つまり前週の号から貸し出すというのである。ところがOPACで探すと、そこの館のものは早くも行方不明である。誰かが持って行ってしまうのだろうか。週刊誌なんかマグネット・プロテクションをかけられないんだろうか。それでよその館にあるものを取り寄せるというのである。申し込んでから約二週間ほどたってようやく順番が回ってきた。
 この記事はノンフィクション作家、大野芳の書名記事である。結論から言うと少なくとも見出しは間違っていると云うことである。後に南極観測船として従事した宗谷が戦中に「地領丸」という船名で軍に徴用されていた時にどのような軍務についていたかという話なのであった。だから本当は「宗谷は戦中スパイ船だった」と云うことになる。それにしてもよく調べてあるし、実際に戦時中に宗谷に絡んだ人たちから取材していることがよくわかる。出来ることならば取材に応えた人たちの年齢を表記して欲しかった。
 「宗谷」の物語は実はアニメになってテレビで放映されたことがある。私が理解していたのはソ連から発注された貨物船ではあったが、確かにソ連には引き渡されはしなかったこと。国内の船として引き渡され戦後引き揚げ船、灯台補給船であったものが南極観測の始まりに際して時間がないことから急遽候補となって横浜で試行錯誤の改造を受けて出立したというものであった。
 この記事の中にもあるが、今は船の科学館に係留されて公開されている。この船を見ると本当にその華奢なことに驚く。操縦席はなんと暴露である。今では誰もこんな発想をしない。もちろんクロウズ・ネストと呼ばれる見張り台は上についている。氷の動きを見るには高いところに上がって遠くまでを見渡す必要がある。船の科学館の展示課の人からある日お伺いした話では、メンテのためにペンキ塗り替えの前処理をしていて外板の一部がもろくも崩れた部分があったという。最初の建造の時から全くオリジナルのまま残っていた唯一の外板部分だったことが後に判明したというのである。
 この次の観測船は「ふじ」。今は名古屋港に係留されて公開されているはずである。その次が現在もまだ現役として就航している「しらせ」である。「ふじ」以降は観測隊支援と云うことで文部科学省予算として編成されるが、防衛庁の防衛艦として位置づけられているわけである。「しらせ」の竣工は1982年。一年間の完熟訓練を終えてその秋から就航している。だからすでに25年目に突入しているわけである。竣工直前の報道公開の当日は雨だった。なんとも薄ら寒かったことを覚えている。
 かつては全国民がこぞってその情報に驚きの声を上げたものであった。大晦日紅白歌合戦には必ず南極の越冬隊員から応援の電報が入ったものであった。それを読み上げる高橋圭三宮田輝の声が今にも聞こえてきそうである。もう二人ともいない。
 久しぶりに「宗谷」の文字を見て当時のことを思い出した。改造が完了したばかりの「宗谷」を見学したあの日のことも思い浮かべることが出来る。「ふじ」の初代艦長に見せていただいた8mmフィルムはまるでわたしたちにとっては信じられない世界のことのようであった。私にとっては自分の人生の大きなポイントであったのが南極へ行く船であった。
大野芳[オオノカオル]*1
 1941年愛知県生まれ。明治大学法学部卒。雑誌記者を経て執筆活動に入る。徹底的に取材されたその巧緻な構成の作風は、高い評価を得ている。著書に『1984年の特攻機』『オリンポスの使途』『ハンガリア舞曲をもう一度』『山本五十六自決セリ』『絶海密室』『瀕死の白鳥』などがある。1982年『北針?大正のジョン万次郎たち』で第一回潮賞ノンフィクション部門特別賞受賞。膨大な資料を基に、近代史を独特の視点から描く手法が高く評価されている。

*1:多分この人のことだろうか。amazonその他で検索。