ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

朝から歩く

昨日とはうってかわってぽかぽか陽気である。もちろん朝方や日陰はそれでも手がかじかんでしまう。猫はとろけるようだ。
 残しておきたい建築という話になると直ぐに思い浮かぶ「同潤会アパートメント」だけれど、今や二ヶ所にしか残っていないという。私の記憶の中で最も良く見たのは青山の表参道で神宮に向かう下り坂の右側にいくつも並んでいた、あれである。ちょっとネットで検索してみると、あるわ、あるわ!これまでになくなったいくつもの同潤会アパートメントの写真が内部のものまで含めて沢山アップされている。
 そんなサイトで分かったのが、残っている同潤会アパートメントというと上野下と三ノ輪だということだった。それで、出かけるついでに見てみることにした。

  • すみだ郷土文化資料館

 たまたま近所の役所の出張所にでかける用事があった。それで読書散歩さんが「すみだ郷土文化資料館」のことを書いておられたので思い出した。特別展「東京空襲・60年3月10日の記憶」を見てみようと思っていたからである。言問橋を渡る。ところが残念、今日は月曜日で休館だった。尤も空襲特集は開催期間:平成17年1月22日(土)〜4月10日(日)なのでまだ時間はある。しかし、読書散歩さんが書かれているように「作家・芥川龍之介の妻・文(ふみ)が所有していたお雛様」の展示は10日(木)で終わりである。
 西から言問橋を渡って直ぐに墨堤通りの横に降りて、釣り堀のある公園に入った。ここに釣り堀があることはず〜っと昔から知っていたけれど、小梅小学校の裏にこんな資料館があることは知らなかった。小学校の裏の道を行くとこの特別展のチラシが貼ってあって、資料館はどこかと思ったら、そのチラシが貼ってある正にその建物がそうだった。出したい郵便物があったので言問橋東詰の交番で至近な郵便局を聞くと正に二つの郵便局のちょうど真ん中あたりにいた。吾妻橋の郵便局を目指す。そこから三つ目通りを南にくだって北十間川を源森橋でわたり、吾妻橋交番前の手前を右に曲がる。この辺の建物もす〜っと通ると終わってしまうが、気を配っていると興味深いものがいくつか目にとまる。郵便局で速達を出して、アサヒビールの横を通って吾妻橋を渡る。言問橋に比べて散らかっているのはそれだけ歩行者が多いということなんだろう。

 浅草から銀座線に乗ろうかと一瞬思った。しかし、今日は急いでいない。雷門前のからくり時計がついた観光会館でトイレを借りる。オレンジ通りを左に曲がり、田原小学校の前を国際通りに。小学校近くに何軒かあった小料理屋が何軒も店をたたんでしまっているのには驚く。田原町の交差点(今では信号には壽四丁目と書いてある。何故、田原町という名前が書いてあったのにわざわざ換えたのだろう。)から仏壇屋さんがたくさんある側ではなくて反対側を稲荷町方面に向かう。こちらの方が陽が当たるからである。
 稲荷町の手前の左衛門通りを左に入って誓教寺さんに向かう。この界隈は本当にお寺さんが何軒もある。誓教寺さんには葛飾北斎の墓がある。私はご住職とは前からの知り合い。しかし、先日の永住亭からお会いしていない。ここまで来たんだからとちょいと覗くと奥様が庭に犬と居られた。お声をおかけして、屋根がけをしてある北斎のお墓を写真に撮らせて頂いた。この墓には基礎の石に川村家と彫ってある。つまり北斎は苗字を持っていた。それで本当は間者だったのではないか、という説があるらしい。
 境内でお茶を戴きながら懐かしいお話をしていると、傍らにあるあたかも道標だったかのような小さな石に気がつく。何かとおたずねすると、かつてご禁制の耶蘇教(つまりキリスト教)を信心していた名のある人が残したものだそうで、お寺におかれている不可思議な縁があるらしい。時には学生さんが研究のためにやってこられて測ったりしていくというが、よくよく見るとなんの変哲もない石なのにいわれて見ると十字架の格好をしている。
 4月にはこのお寺で北斎忌が毎年開かれ、法要が行われるそうである。北斎が死去したのは1849年4月19日。90歳とか91歳でなくなったけれど、それまでに93回引っ越ししたといわれている。ご住職のお話では一日に何度も引っ越したことがあるそうだ。富岳三十六景が有名だが、このお寺には有名な紙本墨画淡彩達磨図(しほんぼくがたんさいだるまず)という達磨の立ち姿を描いたものがあって、今年は上野の芸大で展示されるそうである。北斎忌では『絹本着色骸骨図<けんぽんちゃくしょくがいこつず>』という骸骨を描いたものが拡げられたりするそうで、解剖学の先生が来られると面白いお話が聞けるらしい。私もかつて「北斎漫画」を見せて頂いたことがある。
 北斎に娘がいたことはよく知られている。娘の画才も大したものだったということである。しかし、北斎が亡くなってから7回忌だか13回忌だかの法事を終えてからぷいとでたきり行方知れずになってしまったそうである。それにしても結構な高齢だったはずである。
 境内を入って直ぐに気がつくのは左斜めに立っている北斎のブロンズ像である。後ろを見ると平成二年に北斎誕生230年ということでおかれているのだそうだ。どうしてここに立っているのかとお伺いすると、富士山の方を見ているのだそうである。ブロンズがもっと古びてくると良くなるかも知れない。自画像をもとにつくられたブロンズだが、作者の方はこれを完成して程なく他界されたそうだ。

 浅草通りを稲荷町の交差点まで行き、彫刻刀やさんのお店を遠くから撮って、裏にはいる。あった、あった。というよりもかつて良く自転車でこの裏通りは通っていた。表を自転車で走るのは結構面倒だけれど、この裏はまぁまぁだからだ。なぁるほど、これが同潤会上野下アパートだったのかぁ。古いアパートだなぁという印象しかなかった。1929年4月の完工だから74年経っていることになるのだけれど、ホント!?清洲橋通りに面している部分の一階はおそば屋さんが入っていたりする。裏には今でも銭湯がやっている。この辺は空襲で焼けてはいない。だから先代の林家正蔵(後の彦六)が暮らしていた長屋もこの辺にあったものである。上野下アパートを一回りして帰途につく。久しぶりに良く歩いた方だろう。