20年というのは本当にあっという間だ。こんなにお盆に近い日だったのか。あの日のことはいつかブログに書いたような気がする。
その日は今日と違って蒸し暑くて、思いっきりやるせないくらいの典型的な夏の日だった。18時半ごろにあの飛行機は修羅場の挙げ句に山に激突した。あのころ私は企業の広報室で働いていた。毎日遅くまで会社にいるのが好きで、下手をすれば最終の地下鉄が終わっても事務所にいて帰りは裏口から守衛さんに挨拶をしながら出て、タクシーで帰る日々だった。にもかかわらずあの日だけは結構早めに出ていつもの巣で呑んでいた。しかもかなり遅くまで呑んで、帰ろうとタクシーに乗る。するとタクシーのラジオが人の名前を淡々と読み上げている。思わず運転手に「何かあったんですか?」と聞くと「え!?お客さん知らないの?JALが落ちたんだよ」という。15分ほどで家に着くなり、テレビをつける。淡々と乗客の名前を告げる画面である。
そのうちにカタカナで書かれている名前の中に会社の役員の名前と一文字しか違わない名前を見つける。当時彼は社長として大阪の子会社に移ったばかりだった。事故をおこしたJALは大阪行きである。ひょよっとしたら、という思いが胸をかすめると同時に広報担当としての職業意識に目覚める。彼が当人であるかどうかを確かめる必要があるのと同時に自分の会社の社員で犠牲になった人間がいないかという点が気になる。
翌朝、前夜の酒が残っていたはずなのだけれどもうろうとした記憶もなく、朝一番で職場に出勤する。大阪の子会社が始まるのを今か今かと待ち、電話を入れ社長の所在を確かめる。秘書の女性が社長と代わるかと聞くので、そこに確かにおられるのであればそれでいい、と電話を切る。広報室内に近似の名前の人は当社としては関係のない人であることを告げる。次は社員で犠牲になった人がいないかどうかである。これはなかなか確かめることは容易ではない。なにか上がってこないかと席を空けない。そのうちに人事に問い合わせて出張願いで大阪ー東京間を移動する予定の人間をチェックする。それでも後から出張願いを提出する人間もいるからわからない。そのうち各社の記者から問い合わせが入る。同業界でも大阪方面に大きな工場を持つ企業が二つばかりあり、その二つの社からは既に犠牲者の存在が明らかにされる。午後になっても社内から犠牲者の話は出てこない。どうやら大丈夫らしい。職場にあるテレビは終日この事故に関わる画面ばかり。
墜落後すぐに米軍ヘリが現場上空に到着し、救助隊員をロープで下ろそうとしたが、自衛隊が替わるといって撤退したものの自衛隊は夜間作業の危険性に鑑み翌朝まで行動しなかったという「話」がある。「落合由美さんの証言」にも彼女が何回も気を失うが、夜の間気がつくたびに周りから人の気配がしていたというのだ。明るくなって気がつくともう静寂の世界となっていたという。これは仮定でしかないけれど、夜間のうちに救助が入っていたら救えた命がまだあったかもしれない。いや、それでも一体そのけが人をどうやって運び出すんだ、という問題は残るだろう。しかし、救出する試みをなしたか、そうでなかったかは大きい。しかも、その事実を抹殺する必要性がどこにあるのか。どうしても許せない気持ちで一杯である。「保身」に邁進する人間は結果として金を得る。
TBSは墜落時間に近い18時半からドラマを開始。どうしても食事をしながら見る気にならず、他のチャンネルに替えるも、御巣鷹山関連ニュースは続く。食事の後、ついに眠くなって寝てしまう。21時半に目覚めると、今度はCXが当時9歳の少年のおかあさんを主人公にしてこれまたドラマ仕立ての番組を放映。20年経った今年は各媒体がほとんどこの事故を取り上げ鎮魂歌を歌い上げている。しかし、これから先、どんどん薄まっていくのだろうなぁと思う。