ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

またまた高山:宮川朝市から本町商店街へ

 宮川朝市を通って行くと、もうそれはそれは試食と食べ物屋さんが並ぶ。婆ちゃんたちの店はみんな白い布で囲われていて漬け物やら野菜やらを並べている。ちょっと栃せんべいに手を出したら、これが結構旨くて、戻って一袋買った。鍛冶橋を渡って本町商店街へ出た。
 まだまだ静かな商店街の向こうの方に「山下清」の文字が見える。なんで高山で山下清なのか、よく分からないのだけれども、前に立つとショー・ウィンドウに山下清の直筆だと思える作文のようなものが張ってある。横に掲げてある「裸の大将」のポスターは残念ながら芦屋雁之助のもので、私の想い出の小林桂樹のものではなかった。
 その奥に大きな「略歴」が掲げてあった。それによると山下清大正11年浅草区田中町に生まれたとしてある。多分今で言う日本堤のあたりではないだろうか。しかし、後に山下清が八幡学園で書いた日記には母親から「お前は深川で生まれたんだ」と言われたという記述があるとしている人もいる。小学校は石浜小学校に入ったとしてある。後に正徳小学校に転校したとしている人もいるようだけれども、これはもうなくて、この学校は紆余曲折あり、最後は蓬莱中と今戸中が統合されて現在は桜橋中学となっている。ちょっと捜してみると、どうやらここは高山本町美術館(岐阜県高山市本町2-61)というようである。随分前から山下清展をやっているらしくて、高山を訪れた何人もの方がここで山下清の絵を見たと書いておられる。
 正面に「山下清の作文」が掲示されていたが、難しい漢字をきちんと使って書いてあり、今から考えるとしょうがいの程度がそんなに重度とは思えない。

八幡學園へ来るまで 昭和14年9月9日土曜日 山下清
僕は隣保館に居た時お母さんが僕のことを大野先生が何日か遠い所の學校へ連れてってやると言って向ふの學校へ行ったらもうこっちへ来られないと言いました 僕は遠い所の學校と言へばどんな學校だらう 此の學校は毎日止まる學校でどんな所だらうと思って何日連れてって来れるかまちどしがって居ました 5月18日の寝る時かんちゃうさんの先生の所へ連れてってもらって明日遠い所の學校へ連れてってもらうのを話しました 向ふの學校の寫眞を見せてやらうと思って先生が幾らさがしてもなかった僕は寝る時明日遠い所の學校へ行くのを夜が明けるのを樂しみにして置きました やうやく夜が明けて大野先生にどっちの學校へ連れてってもらうか樂しみにして置いてお母さんはお喜びで其のお祝ひで小豆飯をたきました 御飯がすんでからすぐ行く支度をして置いて僕はぱちんこのおもちゃを持って行かうとしたらお母さんはぱちんを持って行くと先生にしかられると言ひました 僕はごむをたくさんあんぜんぴんんはめてしゃつにはめて支度をして置いて大野先生が來て僕と一しゃうに行くので遠い所の學校へ行くので樂しみで\/で話をしながら歩き出しました えんたく自動車に乗って行くので窓からのぞいて景色をながめたら東京の町のにぎやかなところが出てどこへ行くのか樂しみです 新宿のにぎやかな所で下りて新宿から市川の方で下りるのだと言って市川の學校はどうゆう學校だらうと思ひました 向山からぼー\/と電車の音がして市川の方へ下りるのだかあら市川は千葉縣で東京から田舎へ行くのが初めてヾ田舎へ行くのも樂しみで田舎はどんな景色でどうゆう所だらうと思って電車の窓からのぞいて新宿から電車が走って行って窓からのぞいて荒川過ぎるともう東京府でそろそろ家も少ないし田んぼや畠もそろそろ在るのでとても景色がよくて電車がどんどん走るのでどんどん景色がかはって樂しみです いよいよ江戸川の所を電車が通ると江戸川過ぎたらいよいよ此所は田舎で田舎も初目で田ぼや畠がたくさん在って静かで気持ちがよい市川市のあたりは自動車や自轉車は通るので少し東京の用です 市川で下りて市川から八幡まで自動車に乗って八幡から大野先生は時々よその人に聞いて學校をどの邉に在るか聞くので僕は樂しみで先生ど話しながらそろそろ歩き出してもぎいさんの角からまがって此の學校は八幡學園だと言ひました

 山下清昭和36年にヨーロッパに行き、その後全国の巡回展を始めたとしてあるから、多分この時に私は彼を清水で見ているのだろうと推察される。山下清は1971年の7月に他界している。
 「佐々木一朗太の部屋」に、小沢信男著 筑摩書房「裸の大将一代記-山下清の見た夢-」の要旨を載せておられる。