ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

大学全入時代の大学は

 高齢者社会がずんずんと突き進む中、少子化もずんずん突き進んでいて大学に進む人たちの絶対数はどんどん減少してくる。入試の競争率は別として、大学全体の定員数に進学希望者数を当てはめるとほぼ全員がなんの問題もなければ入学できるという数の割合になってくるのではないかといわれている。2005年には既に中央教育審議会は、少子化と大学志願率の頭打ちで大学・短大の進学希望者数と、大学の合格者総数が2007年度に同じになる、と試算していたといわれていたけれど、どうやらまだそこまではいっていないようではある。しかし、早晩実態としてそのような状況に直面するのは目に見えている。それでいながら大学の新設学部、学科は引きも切らず、文化系で云うと連動した大学院がなくても、どんどん心理、しかも臨床系の心理学科や専攻科は雨後の竹の子の如くできてくる。学科名も時代とともにどんどん変更されてきていて今や社会学科のようなシンプルな根源的な科目よりも「人間」や「国際」がついた学科名が百花繚乱である。どんどん学部も学科も細分化されていく。
 地方の私立大学ともなると定員を割ってしまっている大学、短大はもう珍しくはないだろう。どの様にしてソフトランディングしていくのか、模索しなくてはならない状況になっている学校も少なくないだろうと推察することができる。さもないとどこかの英語学校のように突然破局を迎えることになりかねない。
 そんな中で大学が活路を見いだす道として如何に就職率を高めるか(表面だけでも)は重要になっていることだろう。学生募集の新聞広告の中には「就職率98%」というような言葉を掲げている大学だってある。
 それから入試をできるだけ多岐にわたる方法で何回でも受験できるというやり方どんどん盛んになりつつある。最後の最後まで入試を行って学生を拾って歩く、という手だても流行っている。

お金に心配のない社会人、いらっしゃぁ〜い!

 最近目につくようになってきたのは社会人経験を持つ学生への入学優遇方針だろうか。なにしろ団塊の世代が仕事から離れてこれまで我慢していた向学心をここで満たそうという傾向をつかむことは有効な手だてだろう。受験資格に高校卒業であることが述べられるのは当たり前としても、中には「本学教授会が受験資格ありと判定した場合」という一項目がついている場合が多くある。そして最も魅惑的なのは学費の減免である。多くの大学では授業料を含めて年間に100万円をくだらない学費がかかる。高い大学になると今や年間に必要経費が全部で150万円近くになる場合だってある。そんな中、ある首都圏近県のキリスト教系の四年制大学人間科学系学科では、社会人入試で入学すると4年間で学費の134万円が減免されると発表している。この学科では一年間の授業料が都内の一般的な4年制大学の授業料のほぼ半分くらいになる計算である。しかもこの学校では社会人入試の試験科目はなんと800字の小論文一本だけである。400字詰め原稿用紙、たった2枚だ。面接すらない。たったこれだけのチェックで大学の授業についてこられるか、どうかの判定ができると本当に考えているのだろうか。こうなってくると大学の授業というものはどこに基準点を置いて進めて良いのか、教える側も悩ましいだろう。経営者側と教育・研究側との歩調の乱れが生じても致し方がないということになる。
こちら西日本新聞のサイトで見ると
「広島大は6年前から文学部などで50歳以上を対象に論文や面接で選抜する「フェニックス入試」を実施。現在、54−72歳の22人が在籍している」「60歳以上を対象に昨年から全学部で実施した関西国際大(兵庫県三木市)は、全員に奨学金を支給」「大阪商業大(大阪府東大阪市)は社会人入試などで入った55歳以上を対象に「入学時の年齢×1万円」、例えば60歳なら60万円を毎年の授業料から減免するほか、作新学院大(栃木県宇都宮市)も入学金や授業料などを半額」とある。

大人になってから入る大学は面白い・・・けれど

 50歳を過ぎて大学に入った経験から云うと高校を卒業して入学してきた学生たちの中にぽつんと入って講義を受け、ゼミに出席して発言するのはスリル満点で面白い。何が一番面白かったかというと、それまでの会社員時代には周りの人間との関係や、その場の状況によって発言を控えたり自らの意志を曲げたり、あいまいにしなくてはならなかったものを全くそんなことに斟酌せず、自分の価値観だけで判断し発言することができることの痛快さは何物にも代え難い喜びだったといえるだろう。
 もっとも、こんな観点からの質問をして、周りの学生には理解されるだろうか、むしろ邪魔になっているのではないだろうかとも逡巡もしたし、中には私の疑問に共感する学生がいるかもしれない、そうだとしたら彼らのためにもなるかも知れないとどんどん手を挙げた。
 最初の学校では(途中で転校した)何が辛かったといっていくつもの英語の宿題がその日に限って集中し、朝になっても終わらずに登校の電車の中でまでやっていた時は本当に辛かった。午後の授業ではとても眼を開けていられなくて、先生に断って遂に眠ってしまったこともある。何回かは忘れてしまって提出できなかったこともある。それはしっかりと成績に表れていた。それでもそれが嬉しかった。そこまで勉強できることが嬉しかった。
 自分一人が努力をすれば結果が出るが、自分の努力ではカバーしきれないとこれまた結果に出てしまうのもわかりやすい。そして何よりも面白かったのは自分が興味を拡げることのできる範囲を限定しなくてもどこまでも拡がることを感じることができたことだ。
 尤も、それにこたえてくれるだけの器をもった環境に自分をおかないとそれは逆にストレスとなる。具体的に云えば、やたら利用制限のある図書館しかなかったり、ろくに要求にこたえることのできないレファレンス要員しかいない図書館、オフィス・アワーの設定されていない研究室だったり、学生の要望に応えられない学生部といった環境しかもたない大学では、多分名目的なものだけを求めている学生のためにはなっても、本当に学習・研究をしたいという学生のためには全くならないと云うことだ。しかし、そんな大学しか知らない学生にとってはそれがどんな意味を持っているのかすら理解することができないと云うことでもある。
 自分の母校の図書館は卒業生に対して閲覧のためのカードを発行する。貸し出しのためには学校のクレジットカードを作れと云うのでそれも作ったけれど、やたらと利用制限をもった公開の仕方をする。クレジットカードを作らせる時には偉く愛想の良い対応だったけれど、図書館に行くとこの時期は入れてやらないだとか、この時期は貸し出してやらないと一年間のうち3ヶ月は利用を制限する。その取り組みを改正して欲しいと要望を書面で出すと口頭での対応しかなされずに証拠を残さない。そうした回避のやり方には長けているけれど、本来的な図書館の利用拡大、つまり存在価値の拡張性を考える上では非常に後ろ向きだ。つまり、母校の図書館を利用したかったら学生になればいいジャン、という経営的観点に長けていると云うべきだろうか、というのは蛇足である。
 こういう時代になると大学というものがいくつかのパターンに特化していくのではないだろうか。本来的な大学として続いていくもの。学部があたかもひとつの大学のような動きをしていくしかないというもの。専門学校化するもの。敢えて過激なことをいってしまうと「大学」という名前の集金装置とでも云うようなもの・・・・といった具合である。
 尤もなんだかんだといっても自分の研究すらろくな結果を生み出していない自分のような有様ではあんまり人様のことはいえないか。