ほぼ足りてまだ欲 その先

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教育はその国の風土

 朝の日本テレビの番組でフィンランドの教育はなぜ成功したか、というテーマで語っていたらしい。猫が自分に覆い被さって寝ていて重たくて目を覚ましたらそんな放送が流れていた。そこで驚いたのは教員になる人たちはただ単に大学を終えればよいわけではなくてマスターを修了していなくてはならないと云うこと。臨床的教育に多くの時間が費やされていること。そういえば米国、カナダや豪州(他を自分は知らない)ではソーシャル・ワーカーもマスターを修了していなくてはならないのだったなぁ。わが国の制度では教職の資格を得るためには普通に学部の勉強をする上に教職課程を終え、教員実習をこなさなくてはならない。つまり、通常の学部学生に比べたらより深く学ぶ必要があるという制度に一応なっている。
 しかし、よぉ〜く考えてみるとわが国の大学学部教育の大半は、はっきり云ってしまうと大変にイージーにできている。何十年も云われているように、はいっちまえばこっちのもんである。誰がいったんだか、そんなものはとうの昔に忘れてしまったけれど、なにしろ「ディズニーランド化」している。その大半はかつての自分のように世に出て拘束される日々に自分を投じる前に時間を稼ぐために行ったなんて状況が日常化している。大学教育は教師になりたい、自分に多大な影響を与えてくれたあの先生のようになりたい、そのために勉強をしたいと思って大学に進学してきた学生の欲求に果たして応えてきているのだろうか。
 また回顧談になって恐縮だけれども、私が小学生の時に廊下にいて向こうから先生が教室に向かってやってくるのを発見した時に「せんせぇがきたぁ〜!」と叫んで教室に飛び込み、あとで「先生が来られた」と云うべきだろう、歳上の人に対しては尊敬語を用いるべきなんだとその先生は教えてくれた。一目置くのが当たり前だった。周りはそうしてそういう言葉の使い方を教えてくれていた。学校の先生はすべからく勉強をしてそうなった。その後、日本の進学率は驚くほど高くなり、親の世代が高校やら大学やらにどんどん進学するようになった。すると学校の先生がごく普通の周りにいる大人の一人となんら変わらない位置関係になってきた。つまり、子どもの親たちが学校の先生を普通のその辺の大人と同じに扱い始めてきた。子どもの前で平気で「なんだよ、そいつは」と言い放つ。私もそうだったような気がする。そうやって見始めると至る所でいろいろなことに気付いてしまう。こどもなんてそんなところを残酷なまでに平気で身につける。かつて私は陰で、なんだかタブーを犯すような雰囲気で「セン公」なんて言葉を口にしていたのだ。しかし、そんなもの、今や白日の下でごく当然だ。なんでも良くなった。先生を尊敬することの必然性が存在しなくなってきた。あんなに忙しく時間を費やしているのにもかかわらず。単なる公務員化してきたのには無理もないのかも知れない。
 私の世代はそれまで存在していたルール、体制、旧弊を打ち壊す世代だった。小泉が「ぶっ壊す」といったけれど、私の世代は30-40年前からぶち壊してきた。しかし、何もかもぶち壊してしまった。その勢いは政治体制までぶち壊すだろうと、いやそこまでいくんだから、その手前にある生活慣習なんて壊しやすいものは些細なもので、走る勢いでぶち壊して良いのだとしてきた。ところが戦前生まれ世代だってやられるがままなわけはないから政治体制は決して譲らなかったのだ。その結果何が残ったかというと、蹴散らかされてしまった生活現場での規範という実態だ。これは時々「常識」という言葉で置き換えられることもあるんだけれど、そんなものはボロボロと崩れ果てた。そう云う環境下で育ってきた世代はそれ以前の規範で育ってきた世代が思うよりも先にいっていた。そりゃそうだ、潜在的にその前の規範がおかれていて、なおかつそれを凌駕しようとした世代と、そこがスタート地点だった世代とではそもそもが異なる。
 フィンランドの教育に関するレポートを見ていて(あ、その話だったのだ)、教員の専門家としての臨床的育成というものに時間を費やすことの重要性がひょっとしたらヒントかも知れないと思うのだ。そのためには莫大な費用がかかるだろう。そのためには広く市民による応能負担を真剣に考える必要がある。だけれどもよく云われるように、こうした制度は日本ほどの国土に北海道ほどの人口しかいない、“人口密度の低い“フィンランドという国だからできるのだろうか。私はフィンランドという国家に暮らす市民の根源的な意識の高さがこうした風土を作るのではないだろうかと思ってしまった。ならば私が暮らす国ではこうした意識を醸成することができるのだろうか。勿論こうした疑問を持つと云うことは、今現在こうした意識が普遍的に持たれていないと云うことを現していると云うことなんだけれども。
 私は目の前で私たちの国家社会に投げかけられた疑問、問題点というものをその場しのぎのすり替え議論ですり抜けることで世の中を切り抜けていくことができると、それが権力の頂点にいると自分で思っている人間が(本当かどうかは別としても)信じているという風土が「是」として存在する社会にあってはそうした根源的な意識を醸成することは金輪際できかねると思う。それはひとえに彼の個人的倫理観、価値観に基づくのかと云えば、そんな人間をそんな立場に立たせてしまった市民の責任であるだろう。近代的民主国家を構成する上でどうしても果たさなければならない義務を果たすことのできない市民社会は到底民主国家、法治国家とは言い得ないだろう。なにかというと現在政権を握る連中は民主国家、法治国家といいたがるけれど、とんでもない。私はただ単なる思慮の浅い「無責任国家」という言葉にすら踊らされている、ひとつの形態をなさないデレデレ社会にだらだら暮らしているに過ぎないのだ。あ、だからこれで良いということなのか。♪めぇ〜ぐるぅ〜、めぇぐるぅきせつのなかでぇ〜・・・だ。