ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

ミルクのみ人形

 どういうわけか夕飯を喰うとすぐさま眠気が襲ってきてもう意識不明というような状態になってばたりと眠る。子どもの頃すぐ上の姉が買ってもらってとても大事にしていた「ミルクのみ人形」は小さな哺乳瓶でミルク代わりの水を飲ますとすぐにしてしまい、横にするとその角度で長い睫毛のついた目を閉じた。それで何かをすると条件反射のように必ず何かをするのを「ミルクのみ人形のようだ」と表現するようになった。それで、最近の私の「食べる→眠くなる」を「ミルクのみ人形」のようだと表現するようになった。
 目が覚めると日付が代わる頃でニュースは三浦和義の独房内での自殺とアメリカ政府の全く根拠の分からない北朝鮮独裁国家のテロ国家指定解除を告げる。
 その後が驚きだった。NHK総合の音声だけを聞いているとルー大柴だ。ところがその声がいつもと違ってテンションがバカ高くなくて真面目なのだ。
 しかも話題が彼のおじいさんの話になっていて、前田利男といってウラジオストックの時計屋に10歳で丁稚に出たところから話が始まるのだ。1917年のロシア革命でお店の得意先だったロシア貴族達が追放されてしまい、前田はハルピンに引っ越し、そこで小さな店を構える。しかし、そこから一代で一挙に四階建ての店を構え、当時の絵はがきにも映るほどの大成功を収める。
 ルーの父親、稔はその次男坊としてその富豪の家に生まれた。なにしろ当時法事をしようと前田利男は僧侶を日本からチャーター便で呼び寄せたというくらいである。そんな家に当時ピアノを習い、なんでも聞いたらすぐに弾くことが出来たという才能まで見せていた稔は楽天家で誰からも好かれる青年だったという。
 1942年に内地の立教大学に進学した稔は殆ど勉強はしなかったようだけれど、自転車部に所属して運動神経の良さも見せていたのだそうだ。しかし、当然の如く戦争。1945年の7月にハルピンの友人が特攻で戦死したことを聞き、すぐさま徴兵を待たず陸軍に入隊。満州のソ満国境に配置される。
 そして8月9日。ハルピンの前田時計宝石店はロシア兵に蹂躙されるも、姉妹は秘密の屋根裏部屋に隠れて難を逃れる。そして稔はシベリア抑留。理不尽な強制労働下で稔は得意のロシア語とハーモニカでみんなの役に立つ。
 裸一貫になった前田利男とその家族がどのようにして内地に帰ってきたかについては触れられないが、稔が船で内地にようやく帰ってきたのは1949年。その時舞鶴に迎えたのは利男だった。
 ルー大柴が生まれたのは1954年のこと。ルー大柴は父、稔のシベリア体験を殆ど知らなかったのだそうだ。ルーが17歳の時に両親は離婚し、その後ルーは殆ど稔に会っていないのだそうだ。稔はその後糖尿病を病んでルーが30数歳の時に亡くなる。ルーは涙なくしては語ることが出来ない。
 稔の友人は口々に「ルー大柴を見ると前田だ!といってしまう」という。そして稔は病床にあってルーがブレイクする前に「マイ・サンがそのうちテレビジョンに・・」と語っていて、まさに今のルーだったと聞かされてルーはただ、涙。
 そうか、それで彼は立教高校だったのかぁ、と思った。
 番組の名前は「Family History」というのだけれど、番組のHPをみると「番組たまご」てなことが書かれている。こりゃいったい何だ?