ほぼ足りてまだ欲 その先

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昔の地名

 フランク永井の「有楽町であいましょう」のビデオがテレビのニュースで流れた。彼はベース周りでジャズを歌っていた、当時の日本人エンターテインメントの主流だ。有楽町といえば数寄屋橋尾張町という地名が浮かんでくるけれど、もうそんな地名で通じるというのはどれくらいの年齢層になるんだろうか。
 映画「君の名は」をお袋の母親、つまり私の祖母が上京したときにくっついて見に行った記憶がある。多分、一本や二本じゃなかったんじゃないだろうか。岸恵子佐田啓二である。
 有楽町で国電を降りて、都電に数寄屋橋から乗って往復券を買って築地まで学校新聞の校正済みのゲラを届けに行ったのは中学二年生の時だ。
 古い朝日新聞社屋の上にあったホールに入った記憶があるのだけれど、あれは何があったのかも思い出せない。
 日劇の楽屋口に試験の日程を届けに行ったら、「ズーニーブー」のバンマスに「何だよ、俺の試験、もう終わってるじゃねぇか」と怒られた記憶がある。先輩、あれは私のせいではないっす。上のミュージック・ホールには一度だけあの会社の友達に連れて行って貰って入った記憶がある。
 1970年代後半からは泰明小学校前の路地ばかりを徘徊していた。その帰りに数寄屋橋公園の公衆便所によく世話になった。あの公園にすっかりとけ込んでいたあの公衆便所もこの度随分洒落たものに建て替えられてしまった。東芝ビルも取り壊すのか、旭屋も閉めてしまった。あとはガード下の飲み屋が残るだけになるのだろうか。
 東芝ビルの屋上のビヤガーデンに洒落たハモのバンドが出ているからと見に行ったのは「ガロ」だった。そういえばいつだったんだろう、ビルの屋上のビヤガーデンで泥レスなんてやっていたのは。
 数寄屋橋にあった古いカメラ屋の養女を嫁にもらった友人が随分前に死んだという話を聞いたのだけれども、誰も私に彼の死因を教えてくれないのだ。あんなに自信満々な男だったんだから自死、なんてことはなかろうと思うけれど。
 三越の晴海寄りにあった「ORIENT」という喫茶店はいつまであったんだろうか。当時、あの池田弥三郎の「天金」はまだあった。十字屋はまだちゃんとした楽器屋だったし、山野楽器よりはヤマハだった。もう一軒楽器屋があった気がするんだけれど、それがどこで何という名前だったかも思い出せない。ACBにはいつ行っても見るからに修学旅行なのに来ちゃっているセーラー服の女の子たちがいた。尤もこっちも学ランのままだった。東銀座の東劇で見たのがビートルズの「ヤァ、ヤァ、ヤァ」だった。しかし、あそこまで行ったらもう尾張町でもなけりゃ、数寄屋橋でもないか。