ほぼ足りてまだ欲 その先

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埃舞い

 またまた回顧談と相成りそうらえども、私がガキの頃、家の近所といえば冬から春にかけては、もうめったやたらと埃が立って気がつくと眼医者に行ってはなんだかネバネバしたものを目に入れられて帰ってきた記憶がある。あれは一体何だったんだろうか。たったそれだけをしてもらいになんでごった返した眼医者なんかに通ったんだろう。今のように目薬が日常的になかっただろうことは想像がつくけれど。
 道路の舗装がしてあるなんていうのは本当に幹線だけだったんだから、今のように舗装していない道路を探すのが容易なこっちゃない日が来るとは思わなかった。ことほどさように道路建設工事のためにわが国民は邁進して税金を納めてきたのだから、そっち側にくっついて大儲けした人たちはいくらもいたということだろう。そういえば私の周りにはそんなことで儲けた人が殆どいないのはどうしたことだろうか。そんな具合だもの、風が吹けば埃が舞い上がって、結局最後は桶屋が儲かったんだろう。それともうひとつはあちこちに空き地があったし、畑だらけだった。埃が舞い上がるべくなっていたわけだから、きっと今よりも数段埃が飛んでいたんだろうことは想像できる。
 そんなころ、私が育った地域を走っていた道路が京浜国道のバイパスになることになって一気に倍の幅になることになった。といっても今見るとたかだか二車線になっただけである。それまでの反町駅の前を通る道路はゆったりゆったりと牛が引いた大八車なんてのが通っていて、道路のその辺には牛の糞やら、馬の糞やらが落ちているのが普通だった。当然、牛が履いていた草鞋の切れたのなんかも落ちていた。就学前の私は良くそんなものを棒きれで突っついたりしていた。当然雨が降ると長靴でないと行き着かない。ズックではびしょびしょになるのが当たり前だった。校舎に入る前にその汚れた長靴はブラッシでもってこびりついた土を落とすことになっていた。今から考えてみれば、誰も彼もが長靴を履いてこられる奴ばかりではなかったはずなのに。
 そこにある日拡張舗装工事が始まったんだから、子どもにとってはこれはもう見逃せない大イベントだ。幼稚園の行き帰りに座り込んで見ていた。なかなか子どもが我慢できるほどの画期的な進捗を見せないものだからすぐに退屈になってしまって、商店街の裏の鰻屋のおじさんが鰻を割くのを見る方が面白くってそっちに鞍替えしてしまうのだけれど。
 しかし、あの道路が通ってからというもの、まるで川の流れで分断されてしまったようなものだ。そして時代の流れに人々は流されてどこかに行ってしまった。もう貸しビルになってしまった呉服屋の同期生や肉屋の同級生たちはみんなどうしているんだろう。そういえば写真屋も同期生だった。
 今、水たまりのできた未舗装の道路で長靴を履いて写真を撮ろうとしてもそれにふさわしい道を思いつかない。