ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

どちらが本当か

 1951年9月4日、サンフランシスコのオペラハウスで対日講和条約締結調印会議が開かれた。いわゆる吉田茂が「曲学阿世の徒」と罵倒した南原繁の全面講和ではなくて西側52カ国との講和となったあの講和条約である。戦後も日本からの賠償を求めて強硬な態度を示していた各国も日本の後ろにアメリカがいて受け入れることになった。それまでの豪州の新聞を見ると日本からどんな賠償が取り返すことができるだろうかという記事すら掲載されていたくらいである。
 9月7日の夜になっていよいよ吉田茂の演説となる。
1992年にUniversity of California Pressから出版されたRichard B. Finn著「Winners in Peace MacArthur, Yoshida, and Postwar Japan(こちらで読むことが可能)」(日本語版は1993年2月に同文書院インターナショナル出版 内田健三監修「マッカーサー吉田茂」)によると(引用は日本語版から)

 吉田は英語で話す予定だった。シーボルト(William Joseph Sebald 外交局長 1952-4ビルマ、1957-1961豪州)と国務省の専門家は原稿を見せて貰い、「これは良くない」と考えて原稿の大部分を書き直しにかかり、また母国語で演説した方がさらに威厳があるとも助言した。

 実はこの部分に気がついたのは自分でこの本を読んだからなのではなくて、先日読んだ保阪正康の「占領下日本の教訓」p.274で引用されていたから気がついたのだ。
 私はこれを読んで驚いた。というのは「風の男 白洲次郎」青柳恵介著(新潮文庫 2000年)のp.164にこう書いてあるからである。ちょっと長いが劇的な部分だから引用する。

 吉田茂が演説を行う二日前、白洲の許に吉田から電話が入り、首席全権の演説原稿に目を通してくれたかという。まだ見ていないと答えると、早く見てくれという。
 「外務省は僕に見せると文句いうと思ったのでしょうね。しぶしぶもってきたのです。それを見るとしゃくにさわったね。第一、英語なんです。占領がいい、感謝感激と書いてある。冗談いうなというんだ。GHQの外交局と打ち合わせてやってるのです。英語のこういうものを日本の首席全権が演説するといって、向こうのやつに配ってあるわけです。そんなの勝手にしろといったんです。」(「昭和政治経済史への証言-下」)
 白洲は外務省の随員に、書き直せと言いわたすと、その随員は草稿を抱え、白洲に渡すまいという姿勢をとった。白洲は怒り、渡せと、英語で怒鳴った(外務省では、その後白洲次郎は怒ると言葉が英語になってしまうという評判が立ったという)。走行をひったくった白洲は外務省翻訳班長の小畑薫良(憲法の草案を白洲とともに翻訳した人である)を呼び、こういう趣旨の演説に改稿すると言い渡し、草稿の英文も生かしつつ日本語の原稿に改めた。

 どちらが本当なのだろうか。ひょっとするとシーボルトが見た後、白洲がまた見たのかも知れないと思ったのだけれど、英語で演説するはずだったのを日本語でやった方がよいといった人が二人いるということになるだけではなくて、そう翻意させたのが二人いるということになる。青柳が書く白洲は格好良い。なにしろ上の引用の後には「沖縄の施政権返還を盛り込んだのは白洲だ」とまで言っている。しかし、事前の英文草稿が配られていたので、問題にならなかったと。
(注:「昭和政治経済史への証言」1966年毎日新聞社発行 安藤良雄編集 三分冊。のちに1972年に再版。)