ほぼ足りてまだ欲 その先

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必ずやってくる

 長門裕之が南田陽子の死によって夫婦の別れに直面しているところがテレビで何度も繰り返し放送されて、長門が舞台の合間を縫って会見をした。
 「いいか、こんなことになるんだぞ」と何度も何度もテレビによって念を押されているような気がする。はっきりいって私は彼等夫婦となんの関わり合いもないし、彼がテレビカメラの前で妻に対して接する様子が妻に対する日頃のすべてであったとも思っていないし、だから私が何を考えなくてはならないのかと思うわけでもない。
 しかし、人間は選ぼうと選ばなかろうと必ず死によってそれまで築いてきたどんなことともそれで決別をしなくてはならないのだということは間違いがない。どんなに感情を移入し、どんな具合にそれを表現していこうとも、必ず別離の時がやってくる。
 とってもかなわないことに、それがいつやってくるのかがわからないというのが始末に悪い。そこまでどんな心構えでいたらいいのか、果たしてそれまでどのくらいの時間があるのか、どれほど時間がないのかもわからない。いや、わかったらそれはそれでカウントダウンしていくことに耐えられないだろう。だから、一瞬一瞬を大事にしていこうじゃないかという話になるのはわかるんだけれど、それじゃ、その一瞬が過ぎ去ってからはどうしたら良いんだろうか、ということにもなりかねない。
 こんなことをいっているということは、いやいや、まだまだそんな時は来やしないんだから、大丈夫、大丈夫と心の底で真剣に考えちゃいないだろうといわれることだろう。
 尤も別れは死によってもたらされるだけとは限らない。三行半を突きつけられちゃうかも知れないし、そんな時は死によって絶対的に別れを告げられるよりも、何ともぐずぐずなどうしようもない状況になるのかも知れない。ま、こんな事態が起こらないとは限らないという自分自身のこれまでの人生が情けないっていえば情けないが。
 テレビが長門・南田夫妻の死による別離をあっちのチャンネルでもこっちのチャンネルでも延々と流すことには、こうしたことを視聴者に「さぁ、どうだ、どうするつもりだ、いつやってくるのかわからないんだぞ」と突きつけているということなのか。この一連のテレビワークを見せてくれたテレビ局は、実際の生活というのはドラマなんかじゃないんだから、美しく終わる訳じゃないんだぞ、その後も延々と人生は続き、登場者がいなくなったからといってもう終わるというわけではないんだぞということをこれからも伝えていくのだろうか。そんなわけはないんだろうけれど、時間はそうした人たちの痕跡を吹き飛ばして消していくんだろう。