ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

アイバの日本語

 Googleの機能が一体どこまで広がっているのか今やもう想像するのもゾッとするほどのようなのでもうそれはしないんだけれど、随分前から「Googleアラート」なるものを多用している。これはキーワードを登録しておくとそれに関連した記事やら書き込みやらを拾い出してきてくれるという便利ものなんだけれど、それに近い言葉が引っかかって来ちゃうというところもあって、ばらばら落とされてくる記事をチェックするのが面倒でもある。
 今登録してあるキーワードはアイバ・郁子・戸栗・ダキノという正式名を持つ女性の通称「東京ローズ」、統合失調症の息子を殺して遺体を遺棄した父親、「スーザン・ボイル」・・・・等々。
 東京ローズといわれた女性についてはこれまで関連本を読んできているので、連続して関心を寄せているのである。
 先日は関連であるブログを紹介された。それがこちらのブログで、どうやらこの方が寄せている関心が私のものとかなり重なることが分かった。こういう方の書き込みを拝見していると自分が知らなかった資料に関する情報がある場合が少なくないので、軽んじられない。
 拝見していると、今度はこちらのサイトを知る。どうやら渡部亮次郎というNHK記者から園田直氏のもとで福田、大平、鈴木内閣の外務大臣と鈴木内閣厚生大臣の秘書官を務めた方が2007年に書かれたもののようであるが、これまで私が何度もウェブ検索をしてきているにもかかわらず引っかかったことがなかったのはどうしてなのか不思議だ。何となく、図書館のOPACでためつすがめつしてもひっかからなかったような文献が書庫に入ってみたら転がっていたような気分だ。そしてこの中で気になる記述を見付けた。
 アイバ戸栗が国家反逆罪に問われ服役してきた、誠に不幸で理不尽な人生についてはドウス昌代の著書に詳しい。そして先日亡くなった上坂冬子も著書を残している。
 その上坂冬子が園田直が外務大臣だった(1977年11月28日~1979年11月7日)当時(随分雑ぱくな話だけれど)に外務大臣に陳情に来たという。しかし、アイバ戸栗は1977年1月に退任直前のフォード大統領の手によって特赦、市民権を回復していた。だから渡部亮次郎も「なんだったんだろう」と書いている。
 興味深いのは渡部が「外務省の、主としてOB会といえる霞関会の機関誌『霞ヶ関会会報』平成19年2月号に元マイアミ総領事小平 功さんがシカゴ総領事館勤務の際に出合った東京ローズ(厳密にいえば、そのうちの1人だった)アイヴァ・郁子・戸栗・ダキノさんの思い出を綴り、晩年のことを書いておられる」として引いている部分である。
 私はアイバ戸栗は父親が営んでいたシカゴの戸栗商店で時には店に出ていたという記述を他で読んでいたこともあって、この記述には興味津々である。小平氏は店でアイバ戸栗としばしば立ち話をしたというし、「トグリさんと永年親交のあった旧知の元シカゴ新報記者川口加代子さん」の記録もこんな具合に紹介している。

  • 地元の中老年の健康を守る会を設立したが、創立者である事は隠していた。
  • また父親の出身地である山梨県人会のピクニックや新年会に参加していた。
  • オペラ、クラシック音楽、美術が大好きだった。
  • 元気な頃はシカゴ藤間流の後援者として会ではよく挨拶していた。
  • 脳卒中で倒れる2日前、シカゴ藤間流20周年記念公演に出席し、とても楽しそうだった

 こうしたエピソードは私は初めて聞く話で、興味深い。特に彼女が日舞に関心が深かったという点は私にとってはちょっと意外だった。ドウス昌代の著書によれば、アイバは10歳の頃からピアノを習っていて、高校時代には相当な腕前までいっていたというのは分かるけれど、日舞に関してはなにも書いていない。日本に滞在中の戦争期間中にそんなチャンスがあったのだろうか。それともシカゴでそんなきっかけが生まれたというのだろうか。
 最も驚かされたのは小平氏がアイバを評して「日本語も達者で、話し方はおっとりとしていたが、歴史的事件に翻弄された人には見えなかったものの強い意志を持った人との印象だった」としている部分である。
 ドウスの著書でもアイバの両親は日本人の集住地区ではなくて白人の居住区に住んで、家の中では英語を使っていたとしていて、日本に留まらざるを得なくなった時点でアイバは日本語学校にも通ったけれど、挫折していたとある。
 また、月刊エコノミスト 1976年8月号に最所フミが書いているところによるとアイバは「日本語は一言もしゃべれず」なのに、小平氏が「日本語も達者」としているのはどうしたことだろう。
 考えられるのはふたつ。ひとつは小平氏がここではお世辞を使っているのかも知れないということ。良くある話ではある。
 もうひとつは1954年に仮釈放されて以来、シカゴの日本人社会に身を置いて日本語で暮らしていたために日本語が「達者」になったということだろうか。ドウスはカリフォルニアから何度もロング・ディスタンス・コールで電話取材したというし、サイマルから出版された著書の裏表紙には直接アイバの話を聞いているふたりの写真が掲載されているけれど、その取材は日本語だったのだろうか。
 ドウスが本格的に調査に踏み切ったのは1973年(著書記載のプロフィール)のようだからそれ以降のことであることは確実だけれど、小平がシカゴにいた時点がいつのことかはわからない。