ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

浅草新春歌舞伎

 三人の席を探すとその時にはすでに昼の部は三階席は見つからず、今日の夜の部を一番奥の端っこようやくに見付けることができた。
 公会堂に向かって六区を歩いてくると演芸場の前あたりで「あれかしら、そうかしら、どうかしら」と言い合っているおばさん三人組がおられたので「どこを探しているんです?」とお伺いすると案の定「公会堂」という。「あれですよ、見えているでしょ?」とお教えしながら、まけちゃならじといそいそ、向かいから来る傘を避けながらスイスイ、進む。
 15時ちょっとに公会堂の前までやってくると丁度昼の部が撥ねたところで、イヤフォンを借りる列に並び(これがなくては何を唄っているのか分からないもの)、一番上まであがると近所の評判のお豆腐屋さんのご夫婦に遭遇。それにしてもあそこの旦那は私がご挨拶を差し上げてもいつも硬い表情なのはなんでだろう。私は昔何か悪いことをしたんだろうか。

 夜の部はまず、奥州安達原(おうしゅうあだちがはら)なんだけれども、これは実に複雑な人間関係があって、それの一部を取り上げて演ずるんだから、知らない人にとっては何が何だかさっぱり分からないというものである。15時半にチョンとなって挨拶に出たのは亀治郎で、ここに至るまでのこの芝居の流れを説明するのに10分を要するというものである。

  • 袖萩祭文

 『奥州安達原』は、前九年の役八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)に敗れた奥州の安倍一族が、復讐を図るという内容のお芝居です。全五段の長編ですが、中でもこの三段目が『袖萩祭文』としてよく知られています。降りしきる雪の中、盲目となった袖萩が三味線を弾きながら、身の上を語るこの場面は、文楽、大歌舞伎はもとより地芝居などでもしばしば上演されます。
 今回の上演では、中村勘太郎が、袖萩と安倍貞任(あべのさだとう)の二役を演じるのが話題です。哀れな袖萩と、最初は公家の姿で現れ、謀反人の正体をあらわす貞任の勇壮な姿をお目にかけます。
【あらすじ】
 帝の弟、環宮(たまきのみや)が何者かに誘拐された。世話をする禎仗直方は責任を問われ、期日までに宮を救出できないと切腹しなければならないが、その期日になっても行方は知れない。宮のいない御殿にいる禎仗のもとに、帝からの使いとして桂中納言がやってきて、禎仗はそれとなく切腹するよう勧められるのだった。
 そこへ禎仗の娘袖萩がやってきた。袖萩は親の反対を押し切って浪人と駆け落ちしたため、勘当されていたが、父親の危機を耳にして、心配のあまり駆けつけたのだ。結婚した浪人に別れ、盲目となった袖萩は、娘のお君とともに物乞いとなって、祭文を語って暮らしている。
 袖萩の母浜夕は、娘を哀れに思い祭文を語るようにうながす。袖萩は祭文にことを寄せ、親不孝を詫び、哀しい今の身の上を語り、さらに娘の姿を一目見せたいと伝えるのだった...。
(松竹・歌舞伎人・平成19年10月松竹大歌舞伎から)

袖萩の娘のおきみを演じているお嬢ちゃんが、まぁ、健気にうまいんである。傾城阿波鳴門をやらせたいね。

  • 25分の休憩
  • 猿翁十種の内 悪太郎(あくたろう)

 安木松之丞(愛之助)に大酒飲みで酒癖が悪く、周りに迷惑をかけることで悪太郎亀治郎)と呼ばれている甥がいます。悪太郎は今日も酒に酔い、通りかかった修行者の智蓮坊(亀鶴)に修行の話を所望したり、薙刀の話を聞かせたりと困らせます。松之丞が度々意見しても、聞く耳を持たないので、松之丞は太郎冠者(男女蔵)と一計を案じます。悪太郎の痛快な腕白小僧ぶりが楽しい歌舞伎舞踊で、最後の念仏踊りは舞台の奥行きを十分に生かした見応えある舞踊です。

 最後は踊る宗教状況となるなり。
 撥ねてみたらまだ18時半。なんともはや、あっという間の上演時間で歌舞伎を見に来たような気がしない。こりゃ食い足りねぇなぁ。

 日頃の仲間で年に4回やるイベントに較べると同じ浅草公会堂とは思えない状況。幕が上がる前には必ず松竹の女性社員と覚しきお姉さん方がブロック毎に立って携帯電話や写真録音のお断りをアナウンスする。さすが松竹である。私たちのイベントでは携帯も写真も録音もやりたい邦題ということになっている。