ほぼ足りてまだ欲 その先

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テレビ NHKスペシャル「無縁社会〜“無縁死”3万2千人の衝撃〜」

 昨日の夜放映されたNHKスペシャル無縁社会〜“無縁死”3万2千人の衝撃〜」を録画で見る。この録画機が使えるのも来年の7月までということなんだろうか。
 年間3万2千人もの孤独死がいるということにも驚かされるけれど、全く何も手だての分からない死者が年間に1,000人発生しているということも少ない数ではない。この番組の制作過程を見ているとどう考えてもNHKにしかやれない。一年間に100人の調査をしたという。東京の湾岸警察では毎日といって良いくらい水死体が揚げられるというのにも驚く。
 「行旅死亡人」として官報に記載される人のうちに実際関係者が連絡をしてきてその身元が判明し、引き取られるというケースは一体年間に何件あるんだろうか。この言葉そのものは学校で勉強したことがあるからそういうジャンルとして仕分けされる場合があるというのは知っていたけれど、それが官報に掲載されるということは全く失念していた。新聞に掲載されるのであればまだしも、あの官報を普通に一般の市民が読むチャンスがあるとはとても思えない。
 しかも、「行旅死亡人」として分類された人も、中にはNHKが独自に調査してみたら、名前も判明し、出身地も判明し、実際にはその先は事切れていたけれど、探すことはできる場合もある。しかし、そんな調査をするための予算を公共自治体は持っておらない。この人は一体誰だったのか、俄には分からないとしたら、もうそのまま葬られてしまう。
 生涯未婚の増加にも番組は触れていた。仕事に集中し、家族を支え、結婚するチャンスを逸してきてしまった。職を失ってから派遣、バイトの連続で、とても結婚して家庭を築くチャンスを作り得なかった・・・。
 家族との縁が切れていく。仕事を失った、離婚した、社会からも切れていく。特殊清掃業がおこり、死後の整理の依頼を受ける法人が作られていき、死んでからも一人なのは寂しいと合同墓地への埋葬を依頼する。

 こうした話を聞いていると、この国だけではないだろうが(ここでは米国を意識しているのだけれど)、私たちの社会は昭和30年代から始まった「高度経済成長」路線を発展させて大いに経済活動を活発化させるための社会構造を構築することによって、人間の本来的な要件をすべて切り刻んできたということなんだろうといえるような気がする。尤もこんなことはこれまでに何人もの社会学者が議論してきたことなんだろうから、今更こんな爺さんが言う必要もないことなんだろう。
 とにかく都会に出さえすればどうにか現金収入を得ることができたし、それをやればテレビや週刊誌に出ている、みんながどうやらやっているらしい、いわゆる近代化されたいわれる生活を送ることができるらしいということになって、世の中全体のベクトルがそっちに向かった、とてつもなく太い流れができていた。
 だから、その流れから外れた時にはもう世の中の主流から外れてしまった亜流としてひっそり暮らすしかないと本人は思うし、ひょっとするとその繋がっている人たちもそう判断する。「あぁ、あいつは失敗しちゃったんだなぁ」と。すると繋がっていることに面倒くささを感じることになりやすい。うまく行っている人たちはうまく行っているまま生活が進んでいって欲しいと思っているし、うまく行っていない人たちはそれを目の当たりにしたくないし、だったら繋がらないで暮らしていく方が楽だ。
 繋がりたい、だけれども、ちょっと違ってしまった状況を際立たせる結果となることはちょっと辛い。だったら繋がらない方が、そして自然のように離れていく方が楽かも知れない、と。
 番組がその係累を探し出してみると、もう、十年も二十年もどちらからも連絡を取ったことがないという事実が見えてくる。
 この社会は戦後の惨憺たる有様から驚くほどの回復を見せて、戦前の状況を遙かにしのぐ成長を果たした。しかし、その経済的成長は大きなものを代償にして実現できたものだった。「社員は家族だ」というフレーズで作り上げた企業城下町を全国各地に作り上げたことによって農業をベースとして創られていた文化、社会を分断し、再構築した。
 しかし、その企業を守るためにそれまで家族として繋いでいた労働者のみならず経営者、中間管理職のつながりを今度は適宜ぶった切りことができる法整備をし、それが企業の経営倫理としてもおかしいことではないのだとしてきたのだ。
 つまり、平たくいってしまえば営々と築かれてきた農業文化社会を企業文化社会とし、挙げ句の果てには資本家社会にしてしまったということだ。生き残ろうとしているのは資本家だけということだ。
 この先に何があるのだろうか。どんどん先細る人と人の縁なのだろうか。「人の死」が抱える意味はこれから大きく変化する可能性があるような気がする。その証拠に、もう通夜という行事、告別するという行事はどんどん簡素化されて、習慣としても瞬時にカタが付くものとなりつつある。人が逝くことに私たちは段々思いを馳せることを止めていこうとしているのではないだろうか。