ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

どうすればいいのか

 相変わらず、自分の考えをまとめることができない日記そのものなり。書いているうちに書きたかったことが思い出せなくなるというのは悲しいものなり。今度から単語をまず書いておいて、と思っても、ひとつの単語を書いているうちに他の単語を忘れちゃうなり。


 小泉/竹中政権が財界をできるだけ規制から解放して、いわゆる「経済発展」を加速することによって世の中を掌握しようとしてきていたのはわかりやすい姿だったし、あれよあれよという間にどんどん加速されてきて、あっという間に日本社会に蔓延した。これは「儲かる」というキーワードがあると自由経済システム化では突っ走る姿だということを物語っている。
 前例がないと動かない、お役所仕事の元締めである霞ヶ関が良くこんな短期間で日本社会の環境を底から変えるという作業に着手し、法制化してやり上げたものだとその手際の良さには今から考えるとある意味驚異である。
 日本の製造業界は常に不況構造に落ち込むと「米国と違ってレイオフできない」ことが不況からの脱却を難しくしていると説明し続けていた。実際には当時の米国のレイオフは、簡単に労働力を調節できることは事実だったけれど、あの強大だった労組との間でのやりとりで、稼働を復活するためには先にレイオフした労働者から再雇用しなくてはならないという枷があって、やっかいな奴は最初にレイオフできるけれど、先に戻ってくるというジレンマに陥っていた、という話を聞いたことがある。
 労働規制を司っていた当時の日本の行政の姿を今から考えるとかなり正しい形での労働規制だったということはいって良いだろう。労働者派遣法は当時、最も労働対価を搾取しやすい業種には派遣という労働形態を取ってはならないとしていたのだ。
 それを簡単に開放してしまったのは一体なぜかといえば、とにかく財界の代表団体である経団連が与党に対して何かにつけて彼等を支える評価をして政治献金を続けてきたということにあるし、なにかといえば霞ヶ関の行く末を支え続けてきた財界の努力があるからだ。
 とにかく製造業の殆どには管轄官庁、あるいは公的発注機関の管轄官庁、関連機関からの退職者が入ってきているんだから表面面はともかく、実際には大物から小物に至るまでかなりのあと支えをしてきた。
 経済は金がまわってなんぼの世界であって、とにかく金がまわらない限りは経済は停滞して当たり前だよ、という論理はなかなか説得力がある。そうして必要でもないものを驚くようなスケールで建設、造り上げていくことでカンフル注射を打つことがこの国を支える仕組みなんだと耳がタコになるほど聴かされ、そりゃそうだろうとマスコミもまったく否定的なニュアンスなんて含まずに報じてきた。水俣病に代表されるような公害病についても、常に最初に報じられるのはその因果関係については科学的に証明されていない、という見解だった。
 しかし、昨年の衆議院議員選挙で、それまでの仕組みがどうやら破綻を来していることが見えてきて自民党が大負けをして政権が交代した。
 ところが民主党霞ヶ関から見たら美味しいことが継続、あるいは拡大する可能性がとても見られないどころか、どんどん縮小していくことの方が明らかになり、それこそ言葉通りの「お役所仕事」を駆使して霞ヶ関が動かなくなってきた。下手をすると霞ヶ関のタニマチである財界が苦しくなる規制復活の方向が強くなってきたからである。これは一大事であって、どうやら美味しいところがこっちに流れないという前代未聞の事態がやってくる可能性大である。
 なにしろ前政権があれだけ長いこと続いてきたということは美味しい流れが固定していたわけで、これが変わってしまう傾向にあるということなのだ。
 天下りの行き先はどんどん狭まるばかりだ。そんなことは大したことではないといい切っても良いけれど、なによりもかによりも面子が丸潰れてしまう。こんなことを許してはならない。その先兵には検察という官僚を使えば有効だ。
 民主党政権の継続ははなはだ難しい状況に陥りつつある。なにしろこれを支えようとする階層には金と力があまりにもない。なにしろこれまでそうした仕組みの中から排除されていたからだ。だからこそ本来的にはその仕組みを徹底的にぶち壊してしまわないと、いつまでも既得権益保有者が吸い取るがままに金も力も持っていかれてしまう。
 しかし、昨年の8月に自民党公明党に美味しいものの流れを固定化していたシステムからそうでない、本来的に使われるべきところに流れるシステムに変えたいと思った人たちが思いきって立ち上がったのにもかかわらず、私たちはたかだか半年かそこらでその変革が進捗しないということに諦めてしまって、「美味しい流れ」を取り戻そうとする勢力に簡単に明け渡そうとしているかの如くである。
 あれだけ長期にわたり作られてきたシステムを白日の元にさらけ出すのはそう簡単ではない。なにしろあっちもこっちもそのシステムに与しているからだ。
 これは宗教改革のようなものだ。無血革命なのだ。
 なにしろこれまでのシステムの広報機関に成り下がっているマスコミは、今やアジア太平洋戦争中の大本営にヨイショ記事ばかりを書いてきた、あの時代と何ら変わらない。それはこのシステムによって支えられてきたからである。
 経済を見るには不可欠なんだというコマーシャルを打つ某経済新聞は硬派の新聞だというニュアンスを持つが、明らかに財界の宣伝機関以外の何物でもないから、彼等のニュアンスは前政権を正に支持しているのは当然だ。あの新聞の某元部長などは企業の役員よりもよっぽど財界で顔が売れていた。各企業の金で飲み食い、娯楽に興じることは当然のようだった。私の様なちんぴらなんかは顔を見ることすら稀だった。あれはマスコミジャーナリストではない。同じような意味でテレビに出てくる政治評論家と称する諸兄も相当に怪しい。
 しかし、若者が読まない新聞を別にしても、殆どの人たちが見るでもなしに見てしまうテレビの中で、あれだけ「民主党は真っ黒黒だ!小沢は証拠がなくても有罪だ!」と叫び続ければ簡単に市民は洗脳されてしまう。折角、決心してひっくり返したシステムだったのに、ようやく「人間として当たり前」のシステムにしようと決断したのに、私たちはやっぱり簡単に「美味しい流れ」を手放そうとしない人たちのシステムに知らず知らずのうちに戻そうと思いつつあるのだろうか。
 水俣病の被害を引き起こしたのは誰だったのか。チッソという会社ではなかったのか。私たちが彼等の製品を必要としたから起きたのか。いやそうじゃないだろう。儲かるためにコストを掛けずに操業したチッソという会社があれだけの人間の人生をないがしろにしたんだろう。これをあたかも天災であったかの如く伝えるマスコミの怠慢を指摘しなくて良いのだろうか。水俣病の集まりに総理大臣がやってきて「ごめんなさいね」と謝った。確かに彼の祖父も父親も弟も水俣病を無視してきた自民党の嘗ての重鎮だったんだから謝らなくはならないだろう。しかし、これまで自民党の代表は誰も謝ってこなかった。そりゃそうだ。謝るわけがない。そのシステムによって動いてきたからだ。
 そういうシステムにやっぱり私の社会は戻るのか。
 羽田に国際線が戻ってくるんだそうだ。それでは私たちはなんであんなに多くの農民を犠牲にして三里塚という不便きわまりないところに国際空港を作らなくてはならなかったのか。それはあの空港を作ることによって「日本の経済がまわる」からだったのだろうか。当時羽田を拡張することはとてもとても考えられなかったからなのか。