ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

NHK にほんのこれから

 きのうの「日本のこれから」は無縁社会がテーマの2時間だったようで、いつものように生放送。私はこの番組でいつも気がかりなのは司会の三宅アナウンサーなんである。彼はあたりが良さそうに一見見えるのだけれど、かなり独善的な場の仕切り方をする。それがちょっとハナについてならない。
 どうせだったら福祉ネットワークの町永俊雄にやって貰いたいもんだと、番組を見ながらつくづくそう思った。明治学院大の先生がいうには65歳以上の高齢者の16%が要介護認定を受けているけれど、その全員が介護サービスを介護保険を利用して受けているわけじゃないんだと説明した。
 慶應大の金子勝がいったように2000年に介護保険が始まった年に、いわゆる福祉構造改革なるものが行われた。この根幹が介護保険の創設になるわけだけれど、同時にそれまで行政による措置によって介護サービスが提供されていたものが、だれもがどんな介護サービス提供者とでも当事者間の契約によって受けるサービスを選択できるようになった。
 この年に私は福祉系の大学に入って制度的な問題を学びはじめたわけだけれど、即座に持った疑問が果たしてこの日本社会において、それぞれが自らの意思を持って、高齢者介護サービスを選択し、なおかつ契約することができるだろうかと大きな疑問を持っていた。
 しかし、これまで役所のいうがままに決められた施設で決められたサービスを受けることしかできなかったシステムが壁にぶつかっていたこの業界、分野では「選択」「契約」という考え方がとても新鮮で、施設側としては自らの意思を反映させることができるシステムになったという店で魅力的であったのだろう。
 しかし、「選択」することができるほどサービス提供者が豊富に増えているということができるかといったら、全くそれは実現できていない。今でも特別養護老人ホームへ入所希望する人たちが、保育園と同じように待機していて、入れてもらえるところが見つかっただけ御の字だという状況に歯止めがかかっているとは考えにくい。
 そして何よりもその前に、「人様のお世話になってはならない」という文化から必ずしも脱却し切れていないという問題がある。どんなに説明をしても「私は良いの、ここで死ぬんだから」と仰る高齢者は現実におられる。となると、この人の孤独死はこの人の「選択」であって、この人自身はこまりゃしないんじゃないかという疑問だって出てくる。この人をひとりで死なしてはならないというのは周りの人間の勝手な思いではないのかということである。この辺は議論の分かれるところである。
 しかし、この番組でも紹介されたけれど、ひとりで暮らしている時には動けなくなってしまってそのままであっても、一度人に頼って、施設に入ってみたら、また元気を取り戻して、長生きをして良かったという人の声もある。どんなに食べたくない、長生きしたくない、このままで良い、人の手を煩わせたくないといっても、それが本当にその人の意思なのか、いやそうではないのか、判然としないのではないのだろうか。
 この10年間の政府のポリシーを考えると、その間政権交代があったとはいえ、こうした人そのものの基本的な考え方の姿勢を議論することなく、本気になって取り組んできたのかといったらとてもそのように見えない。
 厚生労働副大臣の肩書きで、この番組に参加していた小宮山洋子が70代の女性の「待たなくて入れるようにして下さい」という言葉に対して、財源はそんなにたっぷりあるわけじゃないという受け答えをしたけれど、そんな答弁をするのであれば、彼女はこの席にやってくるに足りる考えを持っていないんだと思うほかない。そうであるべきだから、財源を探せるように努力していきたいと答えるべきだろう。
 この10年間に行政は現実からなにかを学びつつあるのかといったら、明確な答えは「ない」だろう。