ほぼ足りてまだ欲 その先

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こだわる

 今はもう誰も彼も、なんかにこだわっておられる様で、なにしろ10代のこどもからして「僕は今これにこだわっているんです」なんつうことをテレビなんかに出てきちゃ、いっておるようだ。なにしろ国営テレビでも「熱中人」なんて番組があって、その典型的な例でいうと「鉄ちゃん」系なんかの凝り性、つまりこだわっているといわれる人たちのために「この人はこんなに情熱を捧げておるんですぞ!凄いですなぁ!」番組が作られている。
 私がガキの頃、そんなことをいえるのは爺さんと相場が決まっておった。なにしろ何年も何年も掛けて地道になにか、普通の人が普通の生活をしていたらまさか手を出せるものじゃないだろう、というようなものを集めていたり、作っていたりするというものだった。
 植草甚一をごらんよ。え?知らない?ん・・。どうしたもんだろうか。
 ま、良いや。
 例えばだねぇ、天丼を食べるんなら、あそこの店のそれも特上じゃなくて、松じゃないとこれは粋じゃないんだ、なんてことをいってたりする奴ってのもこだわって、凝っているって範疇に入っていたけれど、それとて、あっちもこっちも食べていなくちゃいえるこっちゃなくて、それを普通の生活をしながらだったから時間が掛かって当たり前だろう。
 それが今の人たちは世の中が豊かだったから普通に生活しないで暮らしていくことのできる人たちがどんどんでてきて、そりゃたくさん出現したと云っても良いかもしれないね。そんな風潮に浮き足立った若者たちが、なにか、そんなものを持っていないと自分を見付けられない、自分を見失ってしまうと思い始めたということなんじゃないだろうか。
 なにしろ自分を見付けないといけないと思っているからね。自分なんてどこにもないのにね。自分は自分にしかないわけだから。だいたい見付けるといっている「自分」ってなんだよ?それがそもそもわからんな。そんなこといっている前に金をまず稼がないと、と思っていたのが私の青年期だったかな。それでも私たちの頃はどうにか喰えるという「将来像」があったから気が楽だった。凄くたくさん喰えなくても良いから、ほどほどに喰えりゃいいや、と思いさえすればいつでもできたからね。今の子たちはそれすらおぼつかないッてんだから、そりゃ辛いだろう。
 だけどだ!だいたい、喰いものにこだわる、なんてのは爺、婆がいうセリフでいいわけぇもんがいうこっちゃないぞ。若いうちはどうせ味覚も発達しちゃいないんだから、なんでも喰えよ。それにしてもラーメン如きがこんなことになっちゃうなんて、なんか偏ってるよなぁ。それにこんなことのために並ぶなよ。戦争直後の食糧難時代じゃないんだからさぁ。その間になにか他のことやれってば。
 昨日の銀座・若松の御膳汁粉はそりゃぁ熱くてさ、思わず食道を火傷するかと思ったぞ。それにしても私とほぼ同年齢と覚しきおばさんがひとりで入ってきて、田舎しること御膳しるこの違いを店員に聴いたのには驚いた。今までの人生で何してたのかなぁって。(ま、それほどのこっちゃないけれど。)