ほぼ足りてまだ欲 その先

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映画「442日系部隊 アメリカ史上最強の陸軍」

 19日までだというので、慌てて新宿のK's Cinemaに駆けつける。原題は「442-Live with Honor, Die with Dignity」。監督は日本人のすずきじゅんいち。彼は「東洋宮武が覗いた時代(原題「TOYO'S CAMERA Japanese American History During WW-II)」という映画の監督でもある。こちらは東京都立東京都写真美術館での公開だった。
 K's Cinemaという映画館は昔「昭和館」という映画館があったところなんだそうで、居酒屋が入っているビルの3階にあって、たったの88席という小屋だけれど、みすぼらしいわけじゃないどころか、とても快適な映画館である。それにしてもこの映画を見に来ているのはもちろん平日の昼だからなんだけれど、私の年代が最若手で、それ以上のおじいさんおばあさんが主流なものだから、状況はまぁ、寂しい。
 この映画は私にとっては既知の事実ばかりだけれど、一番驚いたのは、これだけ日系米国人の部隊はLos Angelesで記念碑を持っているのだし、ウェブサイト(こちら)も相当に力が入っているのだから、広くあまねく彼等の経験は語られているのかと思い込んでいたのに、その実、彼等は家族に積極的に話をしてきたようには語られていないところだった。
 彼等が説明するように、確かに彼等の欧州戦線における活躍というのはドイツ、イタリアの枢軸国軍兵士たちの軍事的殺害を意味するわけだから、思い出したくないことだらけな筈だ。すべからく戦争というものは人間と人間の殺し合いを意味するということを忘れてはならないわけだ。そこのところが私のような戦後生まれで、実際に人の死にそれほど直面してきていない人間はすっかり抜け落ちている。ましてやその上に想像力というものが欠落してくれば、いや、想像を巡らすという行動を忘れて暮らしていれば、戦争、即ち人を如何に効率的に殺し尽くすということに何らやましいことを感じなくなってくる。
 抑止力だなぞとわかったことをいっているけれど、それは相手よりももっと効率的に大規模に人を殺す力を持っていることを誇示して、諦めさせるという実に非生産的な人間の浅はかな知恵に過ぎないのだ。仙谷由人が「自衛隊暴力装置」といって顰蹙を買っているけれど、自衛隊というのは明確な憲法違反である軍事組織であって、軍事組織というのは人殺し組織であることはこれまた明確である。それをたまたま暇だから天災時に救援に当たって貰っているわけだ。だから、本当は彼等を災害救援隊として規定すれば良いのであって、「暴力装置」と揶揄されて傷つくプライドをお持ち戴く筋合いはないはずだ。どうぞ、市民のもしもの時の役に立つ救援隊として立派なプライドをお持ち戴きたいと心からそう思う。
 The medal of honor名誉勲章)を受けたGeorge Sakatoの話を是非聴いて欲しい。彼は今でもなくした戦友の名前をズラズラとそらんじることができる。442連隊と100大隊からはthe medal of honorの受勲者が21名も出ていて、これは前代未聞のことだそうだ。それだけこの部隊は消耗したということでもある。
 ここでも何度か取り上げた「Japと呼ばれて」論創社 (2005/02 宍戸清孝著) の他に「ゴー・フォー・ブローク!—日系二世兵士の戦場」 光人社(2003/5渡辺正清著)が昨年光人社から文庫になっており、「棄民たちの戦場—米軍日系人部隊の悲劇」新潮社(2009/06橋本明著)がある。
 確かに彼等は日本人ではなくて、アメリカ人であり、そう割り切ってしまえば私のような日本人とは全くなんの関わりもないのだけれど、不思議なことに先祖は同時代にこの島国で暮らしていたんだと思うと、なんだかそういいきるのもおかしなもののような気がする。それが私がいつまで経っても彼等の歴史に興味が尽きない点ではないだろうか。
 エンディング・ロールの中で語られるある二世アメリカ軍人の娘の述懐は興味深かった。「これだけ全世界からの移民の子孫が同国人として暮らしているアメリカという国なんだから、各国に派遣する大使はその国出身者の子孫にすればいいのに」というものだ。なるほど。
 もっと多くの日本人にこの事実を知って欲しいし、この映画を見て貰いたい。

Japと呼ばれて

Japと呼ばれて

棄民たちの戦場―米軍日系人部隊の悲劇

棄民たちの戦場―米軍日系人部隊の悲劇