ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

古本屋に

 近所に小さな古本屋が一軒。外から見ても買い入れ本で溢れているわけでもないし、文庫本までが後生大事に棚に入っているから大したものもなさそうで、一度も入ったことはなかったのだけれど、偶々通りかかったので、このチャンスかなと足を踏み入れた。文芸書ばかりで、私にはとんと用がありそうには見えなかったのだけれど、店の中には店番のおばさんと私しかいないことに気づいたものだから、直ぐに出るに出られなくて、この際だからとじっくり見ていた。
 すると、ぽつんとなんの脈略もなく、新潮社の季刊雑誌「考える人」の2006年冬号(No.15)が刺さっているのを発見。あの頃はこの雑誌に気がついていなかったなぁと取り敢えず手にしてみると特集が「1962年に帰る」というもので和田誠のインタビューがあり、永井一正亀倉雄策について語っており、当時の数寄屋橋の写真が大きく掲載されている。
 そして表紙に「鶴見俊輔と日米交換船」と書かれているのが決め手となって挟んである価格札に書かれていた千円をおばさんに渡して持って帰ってきた。楽しみにその頁を開いてみると、「これから刊行される“日米交換船”の一部を抜粋したもの」と書いてある。なんだ、それならその本がうちにあるし、それは私が大事にしている本だ。しかし、なんだってこの雑誌にと思ったら、あの本は新潮社の出版物だったからなのだ。私はあの本は晶文社かなんかが出したものだと勝手に思っていた。
 私は永井一正と口をきいたことはないが、亀倉雄策には仕事の関係で一度だけ会ったことがある。それは80年代になって直ぐだったのだろう。平河町あたりに構えていた事務所を訊ね、彼の了解を取らなくてはならないことがひとつあった。当時私は40代前半だったから、多分彼はもう70歳に近いくらいになっていたのかもしれない。彼にとってはその辺の青二才が大したことのない話を持ちこんできたわけで、適当にあしらって終わらせた、ということだっただろう。多分全く記憶に残らなかったに違いない。
 しかし、私は克明に覚えている。助手のような随分美人な知的な雰囲気の若い女性がいたこと、大きなテーブルがあったこと。そして私たちが作って持っていったボードをお見せしたら、ひとこと「随分安っぽいもので作るんだね」といったこと。色を確認して「それで良い」といってあっという間に用件が終わったこと。
 東京オリンピックのあのポスターを作った先生はさすがに偉いもんなんだなぁ、30歳ほども自分より若い私に対しては木で鼻を括ったような扱いをしたって構わないって思っているんだなぁと、良い印象は持たなかった。永井一正に較べたらエネルギッシュな感じの、簡単にいうとあくの強そうなおじさんだった。利害関係がないからこんなこともいえる。あったらとてもいえない。
 なんで1962年がこの雑誌のテーマだったのか、未だにわからないけれど、東京オリンピックに向けて東京がごった返している、そんな年だった。
 私は中学三年で毎月の学力試験に励み(実態は全くそんな意識はなかったのだ)、週に三日間も英語の塾に通い出した年だ。あの頃私が冬になると学生服の上に着たコートはオヤジの古い上着を裏返したもので、ひっくり返っているのだから胸のポケットが右についていた。まだ、そんな時代だった。