ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

田舎

 私の両親は二人とも岡山の出身でどちらもかつては専業農家で、今から考えればかつての典型的な田舎の農家の暮らしをしていた。なぜか知らないけれど、おふくろの実家にばかりいっていたのでそっちの思い出の方が強く残っている。
 土塀で囲まれた家の門を開けて入ると広い庭の右半分は何もなくて納屋に面している。左は枝振りの大仰な松が植わっていて、それらしい。納屋は今でいうロフトみたいになっている部分があって、そこは床板が並べてあるだけだから歩くとガタガタと音がする。今でもその音が聞こえてくる。母屋は玄関の右側に牛小屋があって、爺ちゃんが入れ替える藁の中に牛がいつでも口を動かしていて、小学生だった私は冬にはやたらと蜜柑を食べてはその皮を牛に向かって放っていた。牛は蜜柑の皮をむしゃむしゃと食べた。
 牛の右側に通路があってそのまま外を通ってウラの畑に行かれる。玄関の土間に足を踏み入れると左は大座敷で、そのまま土間を突っ切ると薄暗くて高い屋根まで見える天井裏からなにかが降りてくるような気のする通路で、そこを足早に通り過ぎると土間のまんまの台所だ。そこにへっついがあって、その右には風呂の焚き口がある。風呂はもちろん五右衛門風呂だけれど、その水はウラの小川からバケツで水をくんでは窓越しに放り込むのである。だからお風呂が炊きあがって、どれどれと入ると時には風呂の中に茹だったメダカが浮いていたりしたものだ。
 風呂を焚くのはウラの屋根下に囲ってあるところにため込んである松の小枝を燃料にする。松の油分があるから乾燥した松葉はぱちぱちと良く燃える。その燃料が少なくなってくると爺ちゃんが篭を背負って裏の里山に行って落ちているそんな枝を集めてくる。たき付けには藁を使うんだが、これが実にほんわかとしてよい香りがするものだ。後年垢にまみれた青年期にSan Franciscoでこれにそっくりな匂いを嗅いで懐かしい思いに駆られたのだけれど、あれとこれでは大違いだった。
 裏の畑は一体誰が世話をしていたのかよく知らないけれど、多分爺ちゃんだったのだろう。夏に行くとキュウリや茄子が生っていて、それをもいできてはキュウリは味噌をつけてそのまま食べ、茄子はフライパンで焼いて食った。それがおやつだった。あの辺りでは普通だったのか、あの家が変わっていたのか知らないけれど、飯を喰うためには台所の一角に食堂があった。6人ほどが座れる机があって、土間に置かれた椅子に座ってその机を囲む。実家の一人っ子の従兄弟が自分の前の引き出しを開け、箸箱を取り出して自分の箸を出して食べるのが珍しかった。自分にはそんな箸箱がないのが、寂しい気がしたものだ。その従兄弟は51歳の若さで妻と二人の子どもをこの家に残し、あっという間に心筋梗塞で急死した。彼の葬式を無事に済ませ、叔母と話しながら座敷で寝たその翌朝が阪神大震災だった。
 春先に婆ちゃんと田んぼの畦を歩いてはヨモギを摘み、これを持って帰って餅をついてよもぎ餅をこしらえて貰った。ここの臼は今から考えると御影石のもので、臼というものはどんな絵本を見ても木でできていて猿蟹合戦の猿はこいつに上に載っかられて降参するはずなのに、ここの家の臼が石なのにはなんだか肩すかしを食らった気持ちだった。このあたりは丸餅を作るからよもぎ餅は帰りにチッキにして家に送ってもらった。堅くなっても家の火鉢で焼くとぱかっと割れて膨らんで、ヨモギが匂った。その度におふくろにヨモギを摘みにいった話をした。
 ここの婆ちゃんはいつ亡くなったのか、今ではなかなか思い出せない。まん丸の東海林太郎がかけているような眼鏡をかけていた。後年モップス鈴木ヒロミツを見て笑った。うちの婆ちゃんにそっくりだったからだ。爺ちゃんの方は今考えると痩せたハマコーが髪の毛を刈り込んだような顔をしていた。小さい人で、今の私が小さいのはあの爺ちゃんの遺伝だろう。オフクロもおばさんも小さかった。
 爺ちゃんの自慢はこの家の先祖が平家のなんとかという侍だったということで、鎌倉にその人だか、そのお殿様だかの墓があるはずだから「君が大きくなったら探し出してくれ」といっていたような気がするのだけれど、それが誰のことだったのか、全く憶えていないし、今となっては聞く相手は誰も残っていない。確かに座敷の鴨居には古い槍がかかっており、なんでも敗戦時には武装解除でとられるから納屋に隠して置いたのだそうだ。他にも日本刀があったといっていたけれどそれはどうしたんだろう。時として桐の箱に入った巻物を取り出し、これを拡げると家系図になっていてそれを遡るとなんたら天皇にまでつながると書かれていたのを見て驚いた。しかし、こまっしゃくれた従兄弟が「こんなもなぁ、偽物じゃ!」と言い放つのを聞いて、なんだか私にとっては色褪せた。後年聞くに及ぶといくらでもこうした家系図を造る人がいたともいう。爺ちゃんはしゃがれた声を出しては従兄弟を叱っていたが、その従兄弟は一人っ子の跡取りだからか、いいたい放題で、小学生のクセに平気で「うるせぇ、このくそじじぃ!」と怒鳴り倒していたのに面食らってみていた記憶がある。
 従兄弟のとんでもなさの凄さは、黙って漫画を見ていたかと思うと突然「わっはっっはっっは!」と笑いながらその漫画を放り出すのを見て、その屈託のなさには恐れ入ったものだった。
 この従兄弟と同じ年齢の又従兄弟の男の子がやっぱり遊びに来て、ある夏の日に近所の大きな神社の境内だったか、そのそばにあったのか、池に浮かんでいる和船に三人で乗って遊んだことがある。その時は別になんということもなかったけれど、あの時にあの船がひっくり返っていたら、夏休みに良く出る水の事故の一つになっていて、私はここにいないかも知れないとふと思い出した。
 今でこそバイパスができていて昔からの田舎の駅から続く道はすっかり路地のような案配になっているけれど、かつてはこの道をバスが通っていたわけで、今から考えると良く走っていたものだと本当に信じられない。バスが小さかったのだろうか。それにしてもGoogle Mapはすごいなぁ。今でも残っている納屋の外壁をここにいて見ることができるぞ。
 寒い雪の降る日はこんなことを思い出すのに丁度良い。