ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

たった一年半

 地震津波原発という三重苦の惨事の前にまったくの話、殆ど話題にならなかったのが大阪検察特捜部元検事・前田恒彦に対する大阪地裁の判決はたかだか1年半の懲役だった。しかもこれまでの拘置期間150日がこの計算に組み込まれるそうで、実際には残り約一年の懲役にしか過ぎないし、ひょっとしたらそれよりも前に仮釈放になって出てくる可能性は充分ある。彼が犯した犯罪はまったくの冤罪事件で決め手になる可能性のある証拠物件(この場合はフロッピー・ディスク)を書き換えたという実に卑劣且つ芸のない罪で、これを犯罪被告の弁護側がやったというのだったらありそうな気がしないでもないが、検察がやったということにとんでもなく大きな社会的影響があったことは論を待たない。
 然るにこの事件を受けて議論となった「検察の在り方検討会議」はどうもメンバーの一人となった江川紹子の報告によると全面的な検察捜査の可視化を提言していないようだ。
 どうしても納得ができないのは、司法の一角を構成する検察という機能が全く信用がならないということがはっきりと露呈したにもかかわらず、彼等がこの危機を明確に危機として捉え切れていないという点に尽きるだろう。この場合の「彼等」には現在の検察庁を頂点とする組織そのものだけを意味するのではなくて、裁判所や、法務省そのものも含む広い意味での官僚組織を意味することになるのだけれど、不正の温床を如何にして打破するのかという使命感を持ち得ていないということが益々明らかになってきている点にある。
 この際彼等が「操作の全面可視化」に踏み切れなかったのは、身内に対する保護姿勢を振り切ることができないという未成熟な正義感の故ということができるのかもしれない。これはここだけの話ではなくて、福島第一原発の大事故の状況判断、原因追及、現状復帰という現場でも全く同様に起きている状況でもあることにわれわれは気づく必要がある。
 一人、前田恒彦が長期にわたる懲役を喰らえばそれで良いというわけではない。江川紹子が心配するように、これでは「なにも良くならない」と断じることはできないけれど、根本的な解決を法務省が構築できるとはとても思えないし、検察がまだまだ冤罪を生み出す可能性を抱えたままでいるといわざるをえない。
 裁判所と検察が人事的交流を日常的に行っていることがなにも咎められないという一点を捉えても不自然さは拭えない。日頃から人があっちに行ったりこっちに来たりしている関係の中で、逮捕状請求だとか、勾留請求に対して拒否したり、却下する関係性を保持できるのかといったら、誰が考えてもおかしなことになっているという疑いをもたれて当然だろう。フェアネスというのは誰の見る眼からも明らかでなくてはならない。