ほぼ足りてまだ欲 その先

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いいにくかったのは事実

 またまた原発問題の話で大変恐縮なんだけれど。
 かつてから書いていたように、原子力の利用というものは絶対必須な処理方法の決め手が見つかっていない廃棄物を大量に生み出すシステムなので、はなはだ未完成なものであって、それを日常的なエネルギー源に使うのは間違っているんだと反対してきたのだけれど、世の中の雰囲気はとてもそれを主張できるものではなかったといって良いものだった。そう主張するのは福島瑞穂が主張する社民党的闇雲見解であって「なんにでも反対」スタンスという頑迷な考えなんだというムードの中にあったことは否定できない。いつでも反応が怖かった。
 それはとても霞ヶ関的な見解なんだけれど、この世の中では、なにもかも「みんなで覆面をして渡れば車も怖くないし、それを見ている人たちの倫理的視線も怖くない」というムードの中にいる。
 団体で2列縦隊になって歩道を歩いていて交差点に差し掛かると、信号が黄色になっても前の人にくっついて渡ろうとするという人の習性を経験した人は少なくないだろう。その時に、これは停まらなくてはと後続の人間を押しとどめるという役割をする人が敢えて必要なのである。なぜか人はくっついていくという行動をどんな時でも取る。そしてその時になんというかというと「前の人が行ったから」という反応が概ね大半を占める。
 もう70年も前のことになるのだけれど、日本が真珠湾を攻撃してアジア太平洋戦争の口火を切った。その時にどんなことを思ったのかということを様々な人たちの日記で読むと、一様に「高揚感に駆られた」といっている。そうじゃない、相手国の市民の上に爆弾を投下したのだ、人を殺してきたんだといったらどうだっただろうか。
 社民党福島瑞穂憲法9条死守であり、原発反対である。一般的な国民はそれをなんといっているのかといったら「平和ボケ」という。嘲笑気味に「現実離れしている」という。「みずほたん」とtwitter上でも語られてしまう。
 じゃ、現実というのはなんだ。放射線に見事に汚染された校庭に一時間(正確にいうと登下校時にも汚染されるからもっと短い必要があるのだろうけれど)しか出ていられない学校に通うということなのか。たかだか小松菜やほうれん草を食べるのにどこでいつ収穫されたものか確かめないと食べられない生活のことをいうのか。
 徴兵されて古参兵にいじめられて、集団で訓練と称してぼこぼこにされるような軍隊を日常的なものとすることが「現実」ということなのか。徴兵制を主張する讀賣-自民党-石原慎太郎というグループは自分が徴兵されることは決してないからいっているし、そういう制度に若者を放り込めば無理矢理年長者のいうことを聞かすことができると思っていっている。そしてそうした風土を取り戻すことが日本の伝統を取り戻すことなんだと思い違いをしている。
 多分そんな不祥事というか、闇の部分が表出されるのは普通じゃないのであって、普通の人はこんなことはそうそうあることじゃないと思っているからこんなことをいっても殆ど相手にされない。
 自衛隊に就職して(志願兵という感覚ではなくて、こう表現する方があたっているだろう)とても務まらないからといって辞めていく人はかなりな数に上るだろう。中には訓練で要求されるレベルについていかれないからといって諦める人もいる。中には折角「国を守る」という意思を持って入ったのにとても嫌な思いをして辞めざるを得なかった人たちもいる。
 東京という自治体は不思議なところで、作家と称する人が知事と副知事をやっている。もちろん市民活動から政治の世界に足を踏み入れるというのが本来的な姿だから、前職がなんだろうとこの国を開かれた、抑圧されない、人びとの生活を向上し、暮らしやすいものにしていこうという高邁な思想を持っている人であれば、誰でも歓迎なんだけれど、この人達の「君らは愚かなんだから、黙っていうことを聞いていればいい」というスタンスをどうして東京都民が支持しているのかがどうしてもわからない。「女性が生殖能力を失っても生きてるってのは、無駄で罪です」「日本の原子力発電所の管理体制は世界で一番。東京湾に造ったっていいくらい日本の原発は安全だ」と、これはまぁほんの一部だけれど、こんなことを平気で言い放っているんだよ!?
 前の人たちにくっついていって赤信号を渡り、車にはねられてもまだ「前の人が行ったから」と言い訳していても、大けが、若しくは死に至るかも知れない。周りの人たちが「原発やめたらどうやって生活するんだよ」といっているんだから大丈夫なんだよといっているうちにこんなことになっている。
 浜岡原発は今すぐに止めないと、クールダウンが間に合わない。