ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

雑感


 東京電力の「現場無視、機関投資家こそがお客様」の株主総会が6時間を費やしたのは前向きだったという捉え方をする輩が居るのには正直驚きを禁じ得なかった。そもそも日本の株式は機関投資家が牛耳っていて、大きくその株式市況があっちへ行ったりこっちへいったりするのは個人株主の力なんて殆ど関係がなくって、機関投資家、あるいは外国のファンドの力によるものの筈である。
 だから、これまでの常識と化していたシャンシャン株主総会が日本の上場企業にとっては当然のことだった。いざとなったらそうした機関投資家が引導を渡すわけで、一般投資家なんてものは今度の東電の株価に見るようにあっという間に資産を失う。しかし、今の東電はこれから先の対応に苦慮するであろうことは確かだけれど、原賠法のおかげでとことん失うところまでは行かないことが明白だ。国民は放射能を浴びせかけられ、子孫や資産をすべて失い、それでも彼等を支えるべくその補償費用、修復費用を負担する。誠に人が良いというべきか、ふざけた話である。
 そもそもこの「シャンシャン株主総会」がおふざけな習慣なのであって、なにしろ短ければ短いほど総務の総会担当の腕の見せ所だなんて、バカみたいな話なんである。株主が日頃接することのない経営陣に疑問を糺し、今後の方針を引き出して、そこへ引き続き投資するかどうするかの判断基準のひとつにするべきであって、それを経営陣の息のかかった連中を前に座らせて暴力的に「意義なぁ〜し!」と押し切る習慣を当たり前としている日本の企業は資本主義を無視して暴力で経営を進めているようなものだ。社員株主が有休を取って株主として出席し、まるで子飼いの総会屋のような役割を果たす現場はやはり異様だ。外国では延々と2-3日にわたって続く株主総会が当たり前だという状況を目の当たりにしたこともある。結果として経営陣に踏み切られてしまうにしても、それが本当のシステムの筈だ。
 もう30年も前の話なんだけれど、私が米国に2.5ヶ月滞在していた時に米国の国産車を借りていた。ある日、ガソリンを入れに行った時に、気になったのでたまにはボンネット(英語ではengine hood)をあけてみた方が良いだろうと思ってあけるレバーを捜した。ところがそれがない。あぁ、そうだ、きっとグローブ・ボックスの中にレバーがあるんだよ、と開けてみたけれどない。代わりにインストラクション・ブックが見つかった。捜してみると、確かにグローブボックスの中にこんなレバーがある、と書いてある。ところがない。
 どうしようかと思案投げ首ながら前に回ってみる。とりつくしまがない。中を覗ってみると、意外に簡単な構造でたったひとつのラッチで引っかけているだけだ。考えて見れば怖ろしい話で、フリー・ウェイでこれがガクっとはずれたら一瞬にして目の前に目隠しが立ってしまう。いずれにしろ構造はわかったから、スクリュー・ドライバーを取り出してこのラッチをガクっと外したら即座に問題は解決だった。ま、映画なんかで観るとこうしてエンジンルームを開けてバッテリーを直結してエンジンを動かして車を盗むわけだ。
 で、この話を当時世話になっていた米国人に話すと、「そりゃつけ忘れたんだろう、人間がやってんだからな」とけろっとしているのである。当時の私は直ぐさま「こんなことだから米国の製造現場が品質的に信頼されないんだ、そこが日本の優秀なところなんだ」と書いたものだ。
 ところがこの風土はこの30年間が経過しても一向に変わっていなかった。但し変わっていなかったのは建前だけだったけれど。それほど日本の技術の信頼性は高くて、計画段階でも、製造段階でも、アッセンブリング段階でも、その技術力は相当に自信を持って語られていた。だからこそ、もしそうでなかったらどんなことが起きるのか、という議論を押さえつけてきたし、そんな議論が議題に上ることの発想すら起こりえなかった。
 日本の原子力発電に関するシステムについても、現場技術についても完全で、計画ではやり過ぎるほどに日本の技術者は安全係数を高く実施するという非難すら起きていた位だった。しかし、現場では日常的に発生するポカミスに満ちあふれていたことはよく知られている。パイピングの中に溶接棒のかけらが入っていたとか、ウェスがそのまま残っていただとかは掃いて捨てるほど聴いた。
 しかし、こんなことが起きたらどうするのかというシミュレーションを全身全霊を込めて一体誰が検討してきたかといったら全く欠落していた。なにしろ土木学会の津波検討会ですら電力会社の技術者を大量に送り込んで現実に目をつぶるということでなし崩しにしてきた位なんだからその罪は日本海溝より深い。
 しかし、問題は「目をつぶる」ことを受け入れることになる技術者ひとりひとりの心情だろう。自分ひとり位が目をつぶった位で世の中がひっくり返るわけはない、と思うのかも知れない。それは自分ひとりが投票に行った位で世の中動くわけがないというのと同じ根にある。それがいつの間にか、こんなに大きなことを引き起こす。
 人間ひとりひとりが如何に大きな存在なのかということがわかってきたような気がする。