母校立教大学の吉岡総長が大学院の学位記授与式での挨拶で「大学の存在根拠とはなにか。一言で言えばそれは、「考えること」ではないかと思います」と表明している。「考え方、思考法を身につけることが大切だ、と言われ続けてきた」と続けている。
もういい古された言葉なのかもしれないけれど、これはすなわち「クリティカルに考えること」が基本にあるということだ。そうでないと現状をそのまま肯定し続けることになって何も考えずに受け入れていくことになる。社会に出る、すなわち大学という環境から離れて、金儲けの世界に入ると現状を受け入れることがまず始まりにある。そこから、「こうだと決まっていることを一度横からの視線で見たら、どういう価値観が表れるのか」を検討することによってひょっとしたら面白い展開が図られる可能性が出てくる。
しかし、そういうものの見方に慣れておかないと、どんな時でも、どんな場でも、どう考え直してみたらよいのかがわからないで、そのまま受け入れることになりかねない。
『東日本大震災とその後の原発事故は、大学がそのような「考える」という本来の役割を果たしていないし、これまでも果たしてこなかったことを白日のもとに明らかにしてしまった』と続けている。
この言葉を読んだ時に私がふと思ったのはいわゆる「原子力村の住民」として荷担し続けている人々がその背中にしょっている大学名だった。
で、吉岡総長は「人間社会が大学に、考える場所であることを期待しなくなっているのであれば、そのことのほうがずっと深刻な危機だ」と断じている。これについては大いに同感だ。
立教大学はだからこそリベラルアーツを続けてきたと吉岡総長は言葉をつなぐ。
しかし、である。私には「リベラル・アーツ」を大学院の学位授与式の挨拶で語るというのはどういうことかという疑問が湧く。本来的にはこの言葉は大学学部の入学式でこそ若者にその意識を力説して欲しい。
私は一度目の学部学生の時、全くそんな意識は持っていなかった。1-2年生の時には「一般教養」という名前で専門的な授業をとらずに基礎的な授業をとることとなっていた。何も考えることをしない全く吉岡総長の考えからは大外れだったものだから、あれが「リベラル・アーツ」なるものだったなんて思ってもいなかった。
本来的には、それから考えに考えを重ねて、どんな分野を専攻していこうかと決めて大学院での研究テーマを考えていくというステップのプロセスを踏むわけだ。だから、修士論文、博士論文を書き終わり、評価され、学位記を受ける人たちを対象に語るのはもうすでに時機を逸しているような気がしてならない。社会に巣立っていく彼らに「初心を忘れるな」という意味でであれば、納得できるのだけれど。
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