ほぼ足りてまだ欲 その先

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死を悼む

 人が亡くなると、アァ惜しい人を亡くしたとか、いい人だったとか、世話になったとか、その人の死を悼むものだ。全くあいつにはえらい目にあったよとか、アァこれでせーせーしたとか、いっちめぇやがったざまぁみろだとかいう人にはあったことはない。
 落語の「らくだ」だと周りの人間はひとりとしてらくだが死んだことを悼む人はいない。クズ屋のおやじを使って大家に煮染めと香典を貰ってこいというらくだの兄貴分にしたって別にらくだの死を悼んでいる訳じゃない。これをチャンスにおいしい目にあおうと思っているわけだ。あの噺のかったるいのは死人を使ってそういうことをするからなんだろう。
 そういえば「黄金餅」で死んだ西念を麻布絶口釜無村の木蓮寺まで運んで焼き場切手を手に入れて、桐ヶ谷で焼いてもらって、西念が餅にくるんでで飲み込んだ銭をを取り出すなんて不気味な噺もある。下谷山崎町から通った街の名前をずらずらと並べるところが自慢げだった志ん生の声を思い出すくらいだ。あれだって悼んじゃないな。
 昔から私は何か一丁ことがあると、アァ死んでしまいたいと思っていた。例えば親にこっぴどく怒られた時とか、どうしても終わらせておかないと面倒なことになることが終わらない時とか、アァ、死んじまいたいと思った。死んじまえばみんなが「アァ、こんなことならあいつにあんなことを言うんじゃなかった」と涙を流してもらえるんだろうと無条件に思っていた節がある。全くの話なんもわかっていないぼんぼんそのものである。人生を舐めている。もちろん皆さんはそんな話を聞いたら「え?」といって下さるに決まっている。突然人が死んだと聞いたら何でだろうと思うのは人として当たり前だから。
 しかし、それと人が必ずしも悼むかどうかは別だね。すぐに忘却の彼方にあえなく消えにけり、であることは想像に難くない。忙しい世の中なんだから。