ほぼ足りてまだ欲 その先

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落語

 そういわれてみれば、なんで私が落語が好きになったのか、という点については全く思い出すことも何もない。しかし、これだけはいえる。私がガキの頃にはテレビというものがなかったので、娯楽といったらラジオしきゃなかったのだ。そしてラジオというものは聞いている自分が知らないうちにその場の場面を想像している。それが落語を聞くという行為にそっくりなんじゃないんだろうかということだ。
 なにしろ、まだ学校に上がっていなかった頃だろうと思うけれど、相撲の中継をNHKが必ずやっていた。うちの8畳の座敷は真ん中に二つの畳が正方形になっている。それを土俵に見立てて中継を聞きながらどちらかの相撲取りになったつもりで仕切りをやっていた。当時の相撲は今よりも仕切り時間が長かったような気がする。ラジオでは時間いっぱいになると、観客が「わぁ〜っ」と声を上げるからそれがわかった。
 それにしても、ラジオから流れてきていたのは落語ばかりじゃなくて、浪曲だって流れてきていたんだから、浪曲が好きになったっておかしくはないんだけれどそうはならない。それは浪曲というものは爺さんが風呂屋で唸っているものだという雰囲気になっていたからかも知れない。どういう訳か、風呂屋では、どこかの爺さんが「たびぃ、ゆけばぁ〜」と唸っていた。この私ですら、覚えているくらいだ。みんな自分が広沢虎三だった。
 生まれて初めて寄席にいったのは、前にもここに書いたけれど、横浜駅西口にあった「相鉄寄席」ってところだ。そんなに広い客席ではなかったけれど、今の池袋よりは広かった記憶がある。尤もそれだって子ども心のそれだからわかりゃしない。
 多分何人も出てきたんだろうけれど、覚えているのは林家三平の「唐茄子屋政談」だったというものなんだけれど、ひょっとしたら、三平は出ていたけれど、噺は違う人がやったのかも知れない。小学生が一人でそんなところにいくわけはなくて、オヤジの甥っ子、つまり私の従兄弟(といっても既に成人していた)がひとりでいくのは気がひけたのか、私を連れて行った。
 三平は後に浅草でも聞いていて、それはもう所帯を持ってからの話だ。
 中学の頃に、上の姉が「英語の勉強に必要だから」とオヤジをだまくらかして買わせたSONYのオープンリールの録音機が来た。もっけの幸いと、もっぱら私がラジオから落語を録音するのに多用した。当時の落語少年の常としてつるっぱげで金歯の三遊亭金馬を贔屓としていた。あの人はNHKにしょっちゅう出ていたからでもある。「居酒屋」を最初に聞いたときには、おもわず「へぇ〜ぃ、できますものはぁ・・」とやって見せた。それをオヤジは笑いながらも、「そんなことをする為にこれを買ったんじゃないぞ!」といっていた。あの時にもっとこっぴどくそんなお調子者息子を叱っておけばきっとこんな事にはならなかったことだろう。
 高校三年の時に、とうとう病膏肓にいり、それまでなかった落語研究会を一学年下級生の小柳君と一緒になって作ることになった。小柳君は非常に器用な奴で、高校二年生にして高座で「死神」を演じたというそれはそれは恐ろしい奴だったのだけれど、その後一体どんな道に進んだのか、今では全く知らない。あの落研の連中がその後どういう人生を歩んできたのか、わかるようなことがあったら、多分私は小説を書く。