ほぼ足りてまだ欲 その先

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自己肯定

 誰だって人前で「私が間違っていました、悪かったです、ごめんなさい」というのには勇気がいる。劣等感にさいなまれることだろう。しかし、だからといって「俺は悪くないのだ!」と居直るのは正しい勇気ではない。
 子どもの頃から、もし私が15年ほど早くこの地に生まれていたら、きっと誰憚ることのない皇国少年になって、五厘に刈った丸坊主の頭に「一生報国」なんて書いた鉢巻きを締めて帝都に進入するB-29に竹槍を構えて迎えていたかも知れないと思い続けてきた。それくらい直ぐさま周りに染まりやすい男だった。
 だから多分陸軍幼年学校とか、予科練に憧れたに相違ない。そして皇国の為、父母をお守りする良い子となって特別攻撃隊の一員として選抜されたことに気持ちを昂ぶらせて、「今こそ死してお国の為に役に立つことを喜びとす」なんてどこかに書き連ねていたに相違ない。それは間違いなくそうなっていただろうという気がする。
 なにしろ簡単なのだ。子どもはそう教育をしたら直ぐさまそうなってしまう。
 ところが現実はそんなに簡単じゃない。徴兵されて新兵として出征するとどうも古参兵に随分いじめられたらしいという雑音が聞こえてくる。それは会社でやれ根回しが足りなかったから思ったように各セクションが動いてくれないとか、規定では依頼してから中二日ないと決済されないなんてくだらない社内ルールで苦しめられるとか、そんなのに近い様相もあるだろう。妙に現場でくだらない日々のルーティンに苦しまなくては一人前になれないみたいな、あんなニュアンスに充ち満ちていたはずだ。
 実際には「もうだめだ」と思われる現場に次から次に人間をつぎ込むだけで資機材はないから補給できず、一銭五厘でかき集められる人間を無駄に消費するだけの自分の格好付け、つまり一歩たりともひるまずに米英に立ち向かい、卑怯な中国人を懲らしめるのだとするスタンスをとり続ける将校という名の軍事官僚に振り回されただけだった。
 それなのに、今でもあの頃の意気や良しとしてそれを振り回す輩はいつまでも絶えない。彼らは母国の為に犠牲となった人たちを慰霊しなくてはならないといっているけれど、母国が彼らを犬死にに至らしめたことに何故正面から対峙しないのか。
 「戦争」と称して他国に「侵犯」したことを何故認めようとしないのか。軍閥がはびこったとする他国に何故軍隊を進め、無差別爆撃をしなくてはならなかったのか。どう考えても他国に対して余計なことをしてきたことは否定のしようがないではないか。
 国の道を誤らせた人たちを何故神として崇めなくてはならないのか。他国に出かけていって売春宿を立ち上げた人間を何故神として崇めなくてはならないのか。都合が良いときだけ「皇民」だとし、都合が悪くなると「他国民」だとして区別するのか。
 どう考えても合点がいかない。
 自分がもし15年早く生まれていたら、必ずそっち側にたったのだろうと思う気持ちと、もしそうだったら68年前からは必ずや考えを改めたかも知れないし、意地になって知らん顔をしてそのままだったかも知れないが、多分非常に高い確率であの戦争で死んでいただろう。