ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

もらったUボート

中川正美第2次大戦中の1943(昭和18)年夏、ドイツは同盟国の日本に最新鋭潜水艦を無償譲渡した。その1号艦「U511号」を欧州から約3万キロ離れた広島・呉港まで回航し、唯一生存するドイツ人の元乗組員がこの夏、朝日新聞の取材に応じた。片言の日本語を交えて70年前の「極秘航海」を語った。
 「U511号」のドイツ人乗組員の消息については、潜水艦による日独間の輸送作戦を取り上げた作家吉村昭の著書「深海の使者」は「米軍の沖縄上陸が開始された頃、ジャワ海で全員戦死した」と記述。旧防衛庁防衛研修所が編纂(へんさん)した公刊戦史などに詳しい記述がなく、日本側の史料でははっきりしていなかった。
 今回取材に応じたのは、ドイツ在住のエミール・ワーグナーさん(91)。潜水艦学校で訓練を受け、20歳でUボート(潜水艦)に乗り込んだ。乗組員は47人。技術者やドイツ駐在の野村直邦・海軍中将、日本人軍医ら8人も便乗し、1943年5月にフランス西部のロリアンを出港した。
 「いったん潜水艦に乗ればどこにでも行く。不安を持ってはいけない」と教えられていた。ワーグナーさんは厨房を担当。「潜水艦には米も積み込まれ、日本人からご飯の炊き方を教えてもらった」と振り返る。
 「U511号」はマレー半島のペナンを経由し、同8月7日に呉港に到着。ドイツ人乗組員は1カ月余り広島などに滞在。日本側に操艦方法を指導した。同9月、潜水艦を日本に譲渡後、インド洋方面の潜水艦部隊の補充要員に回された。
 ワーグナーさんの話では、「U511号」の乗組員は同10月にシンガポールに移動し、接収したイタリア潜水艦など4隻に分乗。うち1隻はジャワ海、1隻がマラッカ海峡でそれぞれ連合国側の攻撃を受けて沈没。計15人が戦死した。
 ワーグナーさんら残る2隻で生き残った約30人は、修理のため日本に寄港。そのまま1945年5月のドイツ敗戦を迎え、神戸・六甲山のホテルで抑留生活を送った。こうした事実はこれまで確認されていなかった。ワーグナーさんらは終戦後の1947年2月、横須賀から輸送船で帰国した。
 ワーグナーさんは戦後、独ケルンで食料雑貨店を経営。1980年ごろから独中部の集落、ガッケンバッハ・ディースで暮らす。「U511号」の乗組員ら戦時下や占領期の日本に滞在したドイツの元兵士らは「ニッポン・クルー」として6年前まで交流していた。しかし高齢化が進み、「U511号」の元乗組員の生存者はワーグナーさんだけだという。
 「U511号」の譲渡は、日本が連合国側の商船を攻撃するのが条件だった。しかしワーグナーさんは「本来の目的は遂げられなかった。時間がなかった」と語る。
 戦時中、ワーグナーさんの母は「反社会的」だとしてナチスの収容施設に入れられたという。戦争と独裁の時代を生きたワーグナーさんは家族について多くを語らないが、日本について「家族で食卓を囲み、おかずを一つの鉢から分け合って食べる。そんな日本の生活スタイルは平和でいいと思った」と振り返る。
 散歩中に人に会うと、Uボートで日本へ航海した体験を話す。その理由を尋ねると、こう語った。「悲惨な戦争を繰り返さないためです」
■秘蔵映像も確認
 エミール・ワーグナーさんは「U511号」の乗組員と日本海軍側の交流を撮影した映像を手元に保管している。広島県呉市にあった旧呉海軍工廠が当時、記録用に制作したとみられる。日本に回航された同艦乗組員の映像が確認されたのは初めてで、研究者らは「国内各地の戦時下の様子も映されており、非常に珍しい」と評価する。
 映像はモノクロで13分余り。タイトルは「ようこそ 友好国から好意のUボート」。呉港でのUボート譲渡式や日本側に操艦方法を指導する様子のほか、ドイツ兵士が宿泊した広島・宮島のホテルやキャンプをした呉市近郊の江田島など、日独海軍の交流を紹介。ドイツ語の解説もつく。
 日本を訪れた「U511号」乗組員を撮影した写真は昨年、国立国会図書館(東京)で見つかったが、映像記録の存在が確認されたのは初めてだ。
 旧海軍の歴史に詳しい呉市海事歴史科学館大和ミュージアム)の戸高一成館長は「日本で撮影されたUボートの映像は極めて少ない。海軍が日独共同の作戦を展開しているという宣伝効果もあり、記録用として残されたのだろう」と話す。(朝日新聞デジタル2013年08月13日15時29分)

 Uボート云々もさることながら、戦後、日本にいたイタリア人、ドイツ人について書かれた本に出逢ったことがなくて、これは一度ちゃんと調べてみる必要があるなぁという印象を強くした。
 そういえばジャーマン・ベーカリーじゃなけれど、日本ではそうした食品関連が古くから残っていたのではなかっただろうか。