ほぼ足りてまだ欲 その先

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発達障害

 今やこの言葉が意味する範囲は留まるところを知らず、自閉症スペクトラム(Autistic Spectrum Disorder、略称:ASD)という言葉が近年使われているらしい。統合失調症とはもちろん区別されている。
 やはりWHOのICD-11やら米精神医学会が定めた精神医学の世界的な診断基準「DSM−5」で説明されている。これまで自閉症やらアスペルガーといった表現がされていたものが統合されている。しかし、それでも私のような素人には一体全体どこまでがこう表現されていて、それはどう解決されうるのか全く見当がつかない。研究者や現場の支援者の人たちの集まりにいってみると、もうそれはそれは驚くような分量の資料や解説書が種々出版されていることに驚かされる。
 重度のASDといわれる人たちの中には自分の行動が自覚できないままに、社会生活を送る為に支援者がどうしても必要だという人たちもおられるし、ある程度生活はできているけれど、どうしても世の中の流れに互して、自分の才能を開花させる、あるいは競争に勝って名誉と富を獲得するという行為に参画できない人たちがいる。
 かつては「そういう性格の人」として違和感をもたれ、「協調性に欠ける」として批判の的になっていたりしてきた。いや、今でも十分にそうだろう。
 NEETと呼ばれたり、不登校だとか引きこもりといわれている人たちの中にはその傾向にある人たちが相当な割合にのぼるだろうことは容易に想像がつく。労働環境がどんどん派遣中心の使い捨てシステムになっていくと、彼らはますますそうした谷間に落とし込められていく。
 かつてののんびりした時代には、取りあえず職場が確保されていて、これが無理ならこれはどうだ、という就労適用が現場で行われてきた傾向があった。しかし、今はこれがない。しかも、使い捨てされるから計画的な生活が成り立たない。
 現場の重度ASD支援から日頃の就労支援までこの分野で考えなくてはならないことはとても広い。
 藤圭子の死を契機に彼女の生前のインタビューや行動がテレビのワイドショーで何度も何度も紹介されていたけれど、ひょっとすると彼女もある意味でのASD的傾向にあったのではないか、という疑問がふと湧いてきた。