ほぼ足りてまだ欲 その先

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クリスマス

 さて、クリスマスっちゅうのは一体何なんだろうか。イエス・キリストの誕生日ってことになっているけれど、一節によると、こんな日なんかに生まれちゃいないんだということもいわれている。こんなにたくさんの日本人が「クリスマス♪」だといって大騒ぎをしている。町中のあちこちにクリスマスをお祝いするツリーが大きく設置されて、一番上にあの星が光っている。クリスマスをお祝いして多くのお店では売り出しキャンペーンをしているだけじゃなくて、街中にはイエス・キリストをお祝いし、帰依していますという歌があふれかえる。
 お金持ちはホテルなんかで開かれるクリスマス・ディナー・ショーというパーティーに着飾っていくのだ。若い人たちは前の日から恋人とお泊まりすることが幸せの象徴のようにいっている。
 それなのにこの国にはキリスト教徒はほんの100万人ほどしきゃいないだけじゃなくて、そんなキリスト教徒に対して「この耶蘇が!」と罵倒する。
 宗教に対してどういう態度をとったらよいのか、殆どの日本人はわかっていない。そんなこたぁない、お寺にいったら手を合わせ、神社にいったら手を清めて、鈴を鳴らし、二礼+二拍手+二礼するんだということは知っているけれど、宗教的意識を持ってそうしているわけだろうかと考えるとどうもそうではないだろう。習慣としてそうする、習わしとしてそうしている、ということではないだろうか。
 昨日キャロライン・ケネディ駐日大使が着任した。するとテレビは彼女がかつておじさんのエドワード・ケネディーと共に広島を訪問したときの映像を流した。エドワードは広島の慰霊碑の前で十字を切った。彼は犠牲者に対して慰霊をすると共に主に祈ったということだ。
 うちには両親の位牌を入れた仏壇がある。仏壇というから仏教徒が先祖、つまりこの場合私の両親、にお参りをするということだろう。ところが私はキリスト教徒なのだ。じゃ、私はどう捉えているのかといったらわが両親の記念碑、なのだ。それなのにこの仏壇からあの頑固親父が睨んでいるような気がする。しかるにわが妻は自分は日蓮宗徒なんだといっておる。だから彼女は京都なんぞに行って寺に来ると手を合わせて祈っておるけれど、私は異教徒なので敬意を表してお辞儀はするけれど、手はあわせない。逆に欧州なんぞでキリスト教会にいくと私は帽子を脱いで、ひざまずき、聖水をおでこにつけて十字を切ってはいる。わが妻はお辞儀をして入る。
 本来的な宗教観を持っている人は他の宗教に対しても敬意を表す方法を知っている。もしそれが本質的な宗教であれば、であるけれど。
 とすると、ひょっとすると多くの日本人はキリスト教イスラム教を本質的な宗教として認めていないということなのか。あ、結局ぐるっと回って元に戻ったな。