ほぼ足りてまだ欲 その先

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取り違え

 先日ニュースを読んでいたら、60歳くらいの男性が生まれた病院で取り違えられて、これまで生きてきたけれど、DNA鑑定の結果99.999・・%あっちの家の子だということが証明されたという。しかもあっちのうちの子どもたちは全員大学卒業しているのに、こっちのうちは困窮を極め、もちろん大学なんて行けやしなかったという。いくら何でも理不尽だという話だった。
 悔しかっただろうなぁという感想は確かに持った。しかし、もし、彼(男性だったかな?)が本当の親の許で育ったとしても、こっちの家の他の兄弟はやっぱりそのままだろう。取り違えられた当の相手もやっぱり困窮の中に育ったことになる。
 確かに生まれたところで人生は大きく変わる。子どもの頃に読んだ本の中にマーク・トウェインの「王子と乞食」という本があったことを思いだした。16世紀のイギリスを舞台にした小説だ。本当に王子様と乞食が入れ替わることができるとは思えないが、他人の人生を羨んでもしょうがないぜ、という風に私には思えていた。
 現在60歳だとすると生まれたのは1953年で、戦争が終わってからまだ10年も経っていない。占領から解放されてはいたけれど、7月になってようやく朝鮮戦争が終わった時期だ。私はこの6年前に生まれているけれど、病院で生まれたとは聞いていない。多分家で生まれたのだろうし、これまでずっとそうだと思っている。当時の病院が今ほどシステマティックになっていたはずはない。これ以降だって乳児の取り違えが話題になったこともある。
 生まれた家庭で人生はこんなに違ってしまうわけだし、親が作り出す生活環境で人間の境遇は大きく変わってしまうのが現実であることは枚挙にいとまがない。その上人生は一度こっきりのことで、あぁあの時あぁだったからこうなっちゃったんだから、あそこまでもう一度戻ってそこからやり直そう、ということが可能であったらどんなにいいことかと後ろばかりを向いて暮らしてきた私としては実に良くわかる。
 しかしながら実に残念至極なことにどうにもこうにもどうにもならない。これから洋々たる時間が目の前に横たわっているときにはそんなことを思いもしないのだけれど、それがどんどんとつまってくると必然的に、「あぁあの時」目線にならざるをえなくなる。だから、年寄りのいうことは聴いておいた方がいいぞと、いう話があっちでもこっちでも昔からいわれるけれど、そんな老いさらばえた人間がいうことなんてくだらねぇという感覚があって初めて若者が若者として無茶をやって思いもしない人生を切り開いてしまうことができるのだろう。
 しかし、60年間、本来の立場じゃないところで生きてきた、という事実はどんなことをしても取り返すことができない。ご同情申し上げてもきりがない。一度こっきりしかない人生というのは誠に理不尽そのものだ。
 輪廻転生という考え方が実際に機能していたとしてもそれを意識できないんだからないのと同じだ。