ほぼ足りてまだ欲 その先

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観光客

 たまに銀座に足を伸ばすと、今や平日の昼の銀座は中国人の観光客で充ち満ちておりますな。結構なことでございます。お金が落ちます。外貨を日本にもたらしてくださいます。しかし、相当に傍若無人に見えちゃいます。それは「見えちゃう」んですね。本当はそうではなくても。
 どうしてかというと、第一に話している言葉がわかりません。あたかも、喧嘩でもしているかのごとく聞こえちゃいます。「おい!ふざけんなよ!」とでもいっているかのごとくに聞こえちゃうんです。それに、我先に何でもやるという行動に出がちなので、エレベーターで人の流れを待つってことが習慣にないらしくて、強引に見えてしまいます。
 でも、多分そうじゃないんです。そうじゃないんだけれど、目立っちゃうんですね。実はかつての日本人、あ、今でもそうかもしれませんけれど、外国へ団体で旅に出るとそういわれて顰蹙を買っておりましたよ。
 お〜い!って大きな声で仲間を呼び、道路の真ん中で塊になって人の流れを邪魔したり、平気でその辺に座り込んだり。わぁわぁと騒がしくって、「どうせわかんねぇんだから良いんだよ!」といって日本語でお店の人に怒鳴ったり。そのくせ一人になったら、なぁんもできないのに。全く我が身を見ているようなものです。
 プライベートな知り合いがいないとそうした偏見に拍車がかかりますね。するとその国の人たちが全部そんな人だと思うようになりますなぁ。そこから民族差別が生まれてきます。いくら「差別は良くない」といっても、実感していない人はそれだけで、その民族を一括りにして語るということになってしまいます。
 今度の大阪高裁の在特会ヘイトスピーチ(差別的憎悪表現)への差し止めについての控訴棄却判決は当然だと思いますよ。自分たちが他国で同じことをやられたときのことを彼らは何も考えていないわけです。米国で日本人や中国人がどんな扱いを受けてきたのか。20世紀前半の米国における扱いを思い出してみてくださいよ。あの頃の米国人って何にも知らなくて、本当に偉そうに、何様だと思っていたんだろうか、と怒りがこみ上げてきますよ。
 わけもなく他人を口汚く罵るという行為は実に人間性を欠いている。私たちの心の中に、アジアの中での選民意識がどこかに潜んでいて、ときとしてそれが目を覚まし、「本当のことをいってどこが悪い!」やら「わたしたちは神の国の子なのだ」だとかわめく。
 本当はたった一人、あっという間の時間を過ごすだけに過ぎない、儚い人間という種類の生き物に過ぎないってぇのにねぇ。