ほぼ足りてまだ欲 その先

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勇み足

 慰安婦の話題で、中曽根康弘慰安所を作ったという話がツイッターで流れていた。いったい何の話なんだろうと思っていた。引用元が「終わりなき海軍」となっていた。どんな本だろうと、母校のOPACを探しても出てこない。地元の図書館のOPACで検索すると引っかかった。保管庫に入っていた。出版元は文化放送。1978年6月の刊行で、どうやらこの本は版元から誰かにあてた献本で、なおかつ個人の蔵書印が押されている。副題に「若い世代へ伝えたい残したい」としてある。
 27人の元海軍将校たちが自分が海軍の時にこうやった、あぁやったと懐かしみ、自慢げに語る文集といって良い。
 その中に中曽根が書いている。彼は大学(東京帝国大学法学部政治学科)を卒業後、内務省に入るが、海軍短期現役制度により海軍主計中尉に任官。いわゆる現短というやつで海軍主計中尉。第六戦隊の旗艦「青葉」に乗艦。22-3歳で開戦とともにフィリッピンインドネシアへ。若いくせにいかにして百戦錬磨の兵三千人を束ねたかを自慢している。バリクパパンの戦闘が語られた後にこう書いている。

 やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんな彼らのために、私は苦心して、慰安所を作ってやったこともある。

 たったこれだけだ。これはこれで、ちゃんと言質を取られないように書かれているじゃないか。そもそもここで使っている「慰安所」の中身はなんだ?と聞かれたらなんとでも答えられる。この程度の表現をとりだして、追求しようとしたって、そう簡単にはいかないよ。もちろん、これが書かれた当時、つまり30数年前のことだけれど、その頃はわれわれの中にはもちろん「慰安所」と聞いたらそれは売春施設を意味しており、将校用と兵用ではでは多くの場合使い分けられていたらしいだろうことはうすうす察していたけれど、それは明白な証拠があって思い込んでいたわけじゃない。
 明白な証拠がない以上、それを歴史的事実として認識することができないといってしまえばそれまでで、こうなると歴史とは事実でなり立つものではない、ということができるということになる。

追記

 この本の中には自分がどれほどの学閥エリートで、いかに厚遇を謳歌したか、なんてことをつらつらと書いている馬鹿が何人もいるけれど、そういわれて思い出してみると、私がただ飯を食らっていた(自分の能なしを自慢するあほのようだ)会社にも海兵最後の生き残りだと自称する役員がいた。酔っ払っては軍歌寮歌を高歌放吟する敗残海軍だったけれど、この種の人間は当時は当然の如くに大手を振っていた。同じ業界にあっては海軍工廠出身が牛耳っており、徴兵あがりとは一線を画していたのが今となっては印象的だった。

追追記

http://news.livedoor.com/article/detail/9198847/
 防衛研究所の戦史研究センターにあった「海軍航空基地第2設営班資料」(以下、「2設営班資料」)。第2設営班とは、中曽根が当時、主計長を務めていた海軍設営班矢部班のことで、飛行場設営を目的にダバオ(フィリピン)、タラカンインドネシア)を経てバリクパパン(インドネシア)に転戦した部隊だが、この資料は同部隊の工営長だった宮地米三氏がそれを記録し、寄贈。同センターが歴史的価値のある資料として保存していたもの。
「第二設営班 矢部部隊」という表題の後、「一 編制」という項目があり、幹部の名前が列挙されていた。すると、そこには「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」という記載。
「5、設営後の状況」「バリクパパンでは◯(判読不可)場の整備一応完了して、攻撃機による蘭印作戦が始まると工員連中ゆるみが出た風で又日本出港の際約二ヶ月の旨申し渡しありし為皈(ママ)心矢の如く気荒くなり日本人同志けんか等起る様になる。主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設気持の緩和に非常に効果ありたり」