ほぼ足りてまだ欲 その先

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マー君

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脳腫瘍(しゅよう)の手術を受けた医師の松村光芳さんは、56歳だった2013年9月、放射線治療を受けていた東京大医科学研究所の医師から、脳の別の部分に腫瘍が転移していることを告げられた。手術から1年5カ月後のことだった。
 その日のうちに、NTT東日本関東病院(東京都品川区)に移り、5日後に「ガンマナイフ」という放射線治療を受けることになった。ガンマ線をピンポイントで集中照射して腫瘍をたたく。精度は0.2mm。腫瘍部分以外はほとんどガンマ線が当たらず、副作用は最小限に抑えられる。
 ただ、照射する部位を精密にコントロールするために、治療中は身動きができない。松村さんはブログに書いた。〈途中短時間の休憩を挟んで5時間以上身体を動かせないのが辛(つら)かった。目を瞑(つむ)ってじっとしているしかない。修行ですな、これは〉
 奥沢病院の院長を務めていた。副院長だった伊平慶三さん(55)には当時、「先が見えたよ」というようなことを言っていた。
 ブログにも〈自分がいかに小さく 儚(はかな)い存在なのか 唯一無二の自分は 無限の宇宙からすれば 時空の塵(ちり)にも ならないけれど 僕はここにいた〉と書いた。
 ひとつ心残りがあった。医師としての引き継ぎも済ませた。1年前の講演会で友人には「さよなら」を言った。ただ、ミュージシャンとしての「幕引き」がまだ終わっていなかった。
 1973年から1979年までニッポン放送などで放送された深夜ラジオ番組「たむたむたいむ」で、バンド「ハックルベリーフィン」の「まーくさん」として活動していた。ヒット曲「流れ星」もある。
 念願のライブ演奏会は2013年11月23日、東京・自由が丘のパブで開かれた。ラジオ番組の司会だった放送作家のかぜ耕士(こうじ)さん(70)、バンドの相方の篠根丈二(しのねじょうじ)さん(57)らと一緒に、赤いバンダナを頭に巻いて往年の曲を歌った。
 松村さんは覚悟を決めていた。最後に、夫として、父親として、家族への責務を果たすという「仕事」が残っていた。この年の暮れ、妻尚子さん(55)の故郷、岩手県北上市に、尚子さん、三女の紗仁子(さとこ)さん(24)の親子3人で旅立った。(朝日新聞2014年10月24日05時00分)

 ハックルベリーフィンとは友人を介して接点があった。当時その友人の事務所にしょっちゅう様々な人たちが集まって呑むことがあって、元はといえば二人組のハックルが出版社勤務のベース・プレイヤーとともにイベントに出演してくれて、私はMCとしてかぜ耕士さんにステージに上がって貰ってインタビューにも応えていただいた。
 今、手元にはマー君と丈二さんと一緒に祭りの時に酔っ払ってふざけている写真がある。マー君がやばいらしいと伝え聞いて私は彼が去ってしまうという恐怖に怖じ気づいて一度も彼のところに足を向けることができなかった。FB上で、私が引用した精神科の医者について彼が批判をしたこともあるけれど、彼の信念の発露はそれ位はっきりしていた。
 私がもし彼のような状況にいたら、私は決して彼のような最期を迎える気力がない。多分、ばたばたし、嘆き、絶望し、泣き叫ぶ日々を送ることになるだろう。そして健康な日々を送っている人たちを妬み続けるといったていたらくに陥ることだろう。人間の器の違いだろうけれど、だから、こんな人生を送ってきてしまったのだろう。