ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

一人口は食えなくても二人口は食える

 大学を卒業する直前。最後のスキーに新潟の黒姫高原に行った。一緒に民宿に泊まっていたのはほとんどがその春に卒業する連中だった。蜜柑の載ったこたつの中にそれぞれ足を突っ込んでトランプをしたりして楽しい学生生活最後のスキーだ。
 夜も更けて独り寝、二人寝て、私も寝ていた。夜っぴいてぼそぼそごそごそ話していた連中もいて、ふと目が覚めた時に喋っている言葉が聞こえてきた。「そうねぇ、今結婚したら、あれがこうでこれがこうだたら、最低13万円はないと暮らしていけないわよねぇ!」「そうよねぇ」といっていた。その時点で私が就職を内定していた会社の初任給は月に5万円だといわれていた。初めての給料を5万円もらったと親に報告したら、うちの親父は「こんななんの役にも立たない小僧にそんなに出すとは実に申し訳がない」とまじめに言った。それなのに、あの連中は13万円といっていたのだ。
 私の耳にはあの言葉がこびりついていたから、なかなか結婚はできないなぁと思っていたにもかかわらず、私は就職して2年目の暮れに結婚した。毎月給料日直前には手元に千円札一枚しかないという状態にもかかわらず所帯を持った。なぜ12月だったのか。賞与と書かれたボーナスが出て、生活がちょっとでも楽になるからだった。息を継げるからだった。不思議なもので、給料日前にあれしか残らなかったのに、二人でも食いっぱぐれがなかった。もちろん社宅なんてものがあったからに相違ない。あれがなかったらできなかったかもしれない。非常に恵まれていた。つまり福利厚生といわれる部分だけれど、今から考えてみればあれは給料の一部だったわけだ。当時は高度経済成長の最期の時で、その後そうした部分はどんどん削られていくわけだけれど、今から考えてみればそれは減給に相違ない。ま、実際その後は減給され続けるわけだけれど。
 つれあいの実家の親父さんは実家の家業の従業員たちの給料を、私の給料に準じて決めたのだとあとになっていっていた。彼らにも同じ条件を提示してやらなくちゃな、うちは修正資本主義なんだぜといっていた。従業員のほとんどは中学、高校卒で、親父さんは尋常小学校しか出ていない。それでも家族を養うに充分な手当てをしてやらなくちゃな、と繰り返していっていた。
 今のこの労働環境であったら、私たちはとても所帯を持つなんてことはできなかっただろう。