ほぼ足りてまだ欲 その先

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鶴見俊輔逝去 93歳

 昨夜午後10時過ぎに寝てしまって午前3時前にふと目が覚めた。暑くて汗をかいていた。枕元のラジオを付けると、戦後日本を席巻した日本人のハワイアンをやっていた。バッキー・白片、大橋節夫、エセル中田等々。ネットを立ち上げてみると、上野千鶴子が朝日に鶴見俊輔について書いたという文字を見る。何を今更と思って見ると追悼文のようだ。えっ!と驚いて記事を探す。まさか、と思いながら。それにしても歳も歳だから、早晩この日が来てもおかしくはないと思ってはいたけれど、あの人のことだから、日野原先生くらいには長生きしても良いだろうと。しかし、この「戦争やります法制」のこの時期に鶴見俊輔の声が聞こえてこないのは物足りない気持ちがあった。

 リベラルな立場で幅広い批評活動を展開し、戦後の思想・文化界に大きな影響力を持った評論家で哲学者の鶴見俊輔(つるみ・しゅんすけ)さんが死去したことが23日、わかった。93歳だった。(朝日新聞2015年7月24日03時00分)

 昨日になってわかったということで、なくなったのがいつなのかはこの記事ではわからない。今一番必要な人を亡くしてしまった思いが強い。
 私が鶴見俊輔に気がついたのは相当に遅い。彼が小田実吉川勇一、高畠通敏とベ平連の活動を始めたのが1965年であるけれど、当時の私は全くのノンポリで、ベ平連の存在は知っていたものの、片眼で視界の中に入れていた程度でしかない。「思想の科学」についても知ってはいたけれど、手にしたことすらなかった。
 2002年頃たまたま在籍していた大学の図書館が廃棄本を出した。見に行ってみると、思想の科学の1950年代のものを合本したものがゴロゴロと転がっていた。学生や職員はまったく興味がなさそうだったので、片っ端から貰ってきた。それでも中央公論社が出したあたりからの合本だった。上坂冬子の「職場の群像」が連載されていた。2006年3月に鶴見俊輔加藤典洋黒川創に語った「日米交換船」が出版された。そこで初めて鶴見俊輔の考えを知ったようなものだ。そこから彼の著作を集め始めた。「研究転向」も学校の図書館にあったものを丹念にコピーをしたのだけれど、それをなくしてしまって、とうとう古本屋から買った。それにしても鶴見俊輔の著作は古本屋の店頭にはまったく出ない。
 今月初めに久しぶりに本屋に行った時にこれを入手したばかりだった。

昭和を語る: 鶴見俊輔座談

昭和を語る: 鶴見俊輔座談

朝日新聞上野千鶴子の追悼文が載っている。あまりにも早すぎるから予定原稿だったんだろう。

 鶴見さんが、とうとう逝かれた。いつかは、と覚悟していたが、喪失感ははかりしれない。
 地方にいて知的に早熟だった高校生の頃から「思想の科学」の読者だったわたしにとって、鶴見さんは遠くにあって自(おの)ずと光を発する導きの星だった。
 京大に合格して上洛(じょうらく)したとき、会いたいと切望していた鶴見さんを同志社大学の研究室に訪ねた。「鶴見俊輔」と名札のかかった研究室の扉の向こうに、ほんものの鶴見さんがいると思ったら、心臓が早鐘のように打ったことを覚えている。おそるおそるドアをノックした。二度、三度。返事はなかった。鶴見さんは不在だったのだ。面会するのにあらかじめアポをとってから行くという智恵(ちえ)さえない、18歳だった。
 あまりの失望感に脱力し、それから10年余り。「思想の科学」の京都読者会である「家の会」に20代後半になってから招かれるまで、鶴見さんに直接会うことがなかった。それほど鶴見さんは、わたしにとって巨大な存在だった。
 「思想の科学」はもはやなく、鶴見さんはもうこの世にいない。いまどきの高校生がかわいそうだ。鶴見さんは、このひとが同時代に生きていてくれてよかった、と心から思えるひとのひとりだった。
 鶴見俊輔。リベラルということばはこの人のためにある、と思える。どんな主義主張にも拠(よ)らず、とことん自分のアタマと自分のコトバで考えぬいた。
 何事かがおきるたびに、鶴見さんならこんなとき、どんなふうにふるまうだろう、と考えずにはいられない人だった。哲学からマンガまで、平易なことばで論じた。座談の名手だった。
 いつも機嫌よく、忍耐強く、どんな相手にも対等に接した。女・子どもの味方だった。慕い寄るひとたちは絶えなかったが、どんな学派も徒党も組まなかった。
 哲学者・思想家であるだけでなく、稀代(きたい)の編集者にしてオルガナイザーだった。「思想の科学」は媒体である以上に、運動だった。
 このひとの手によって育てられた人材は数知れない。独学の映画評論家佐藤忠男、「みみずの学校」の高橋幸子、『女と刀』の中村きい子、作家・編集者の黒川創、批評家の加藤典洋……。わたしもそのひとりだった。そう言える幸運がうれしい。わたしは長いあいだ鶴見さんに勝手に私淑していたが、後になって「鶴見学校」の一端を占めることができたからだ。
 ベトナム戦争のときには、ベ平連こと「ベトナムに平和を!市民連合」と、JATEC(反戦脱走米兵援助日本技術委員会)を組織した。ベ平連に「アラジンのランプから生まれた巨人」こと小田実さんをひきこんだのは鶴見さんである。
 加藤周一さんらと共に、「九条の会」の呼びかけ人にもなった。今夏の違憲安保法制のゆくえを、死の床でどんな思いで見ておられただろうか。
 1996年に「思想の科学」が休刊し、十数年後にその意義をふりかえるシンポジウムが都内で開催された。病身を圧(お)して奥さまと息子さんに両脇をかかえられながら、京都から鶴見さんが参加された。そのときのスピーチもきわだって鶴見さんらしいものだった。
 「思想の科学」の誇りは「50年間、ただのひとりも除名者を出さなかったことだ」と。社会正義のためのあらゆる運動がわずかな差異を言い立てて互いを排除していくことに、身を以(もっ)て警鐘を鳴らした。
 2004年に歴史社会学者の小熊英二さんの企画で、ご一緒に鶴見さんを三日間にわたってインタビューした記録『戦争が遺(のこ)したもの』(新曜社)を出したときのことは忘れられない。
 「何でも聞いてください」と鶴見さんはわたしたちのためにからだとこころを拓(ひら)き、どんな直球の質問にも答えをそらさなかった。思いあまって詰問調になったときには、空を仰いで絶句なさった。その誠実さに、わたしは打たれた。題名を思いついたのはわたしだが、話してみて鶴見さんにあの「戦争が遺したもの」の影の大きさを思い知った。
 最終日、鶴見さんの饗応(きょうおう)で会食したあと、わたしはこんな機会はもう二度とないだろうと、別離の予感にひとりで泣いた。
 鶴見さんはもういない。もう高齢者の年齢になったというのに心許(こころもと)ない思いのわたしに、いつまでもぼくを頼っていないで、自分の足で歩きなさい、とあの世から言われている気がする。(朝日新聞2015年7月24日05時02分)