ほぼ足りてまだ欲 その先

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オヤジの戦争

 オヤジが書き残したものをはじめて読んだ。同級生6人で作った文集があるんだけれど、誤字脱字が多くて読みにくく、ちょっと敬遠していたのだ。というのは彼の自筆原稿はつながった字なので、多分タイプ印刷の打ち手が読み切れなかったからなのだろう。なにしろ80歳を超えて書いたらしいから。
 うちの親父は(前から書いているが)明治44年(1911年)5月の生まれで、昭和11年(1936年)、つまり「大学は出たけれど」といわれた年に大学を卒業した。すなわちあの二.二六事件があった年だ。大学を卒業した年にはもうすでに24歳だ。で、卒業と同時に横浜にあった船舶修繕工場に職を得る。しかし、旧制高校でも、大学でも軍事教練への出席日数が足りなくて、卒業間際に集中教練を受けてようやく卒業したそうだから、当時としたらひどい学生だ。その年に徴兵検査を受けることになり、眼鏡をかけていたので第一乙種合格だったという。
 で、召集されたのが7月で、7月といえば盧溝橋事件だ。この時は5ヶ月間で召集解除になったという。この時に同僚はほとんどが4歳ほど年下の連中ばかりだったというのは当然だろう。中学の時に盲腸が痛くて一年を棒に振ったといっているから、今とは医療状況が大きく違う。
 実際に戦地に出かけたのは翌年、つまり1937年6月。ふるさと岡山に入営するために急行瀬戸に乗るのだけれど、横浜からではとても座れないから、同僚の一人が始発の東京までわざわざ行って席を確保してきたというんだから、容易じゃない。
 7月に宇品から天津近くへ輸送船で運ばれ、「岡山歩兵110連隊」は徳県というところを拠点としたらしい。所属は連隊砲中隊だったそうだけれど、この中隊の中隊長は陸士出身の野中次郎少佐だったそうだ。陸士出身の少佐が中隊長とはおかしいじゃないかと思ったらしいが、なんと彼の弟が二.二六事件の野中四郎大尉だったのだそうで、それで冷遇されているんだろうといっている。
 この部隊にはオヤジが旧制高校の時の同級生が少尉として任官していたそうで、オヤジが伍長になるらしいという噂が飛んだときに、この同級生に直接会って、もみ消しを頼んだのだそうだ。とにかく自分がやりたいのは軍ではなくて、工場での仕事だからといって。何しろ高校時代から軍事教練をサボるような人間だから、それを強調して潰してきたというのだ。真面目なんだかそうじゃないんだか、よくわからない。しかも戦後あんなに同僚を集めてやっていた麻雀もこの時、北支で覚えたといっている。
 砲中隊だったから馬がいたわけで、どうやらうちの親父はこの頃馬に乗れていたらしく、時として馬の運動に走らせていたというのには驚いた。確かに馬に乗っている写真を見せられたことがあり、これはきっと上官の馬を目を盗んでは写真を撮ったんだろうと思っていた。1941年の5月に大阪港に帰ってきた。
 これが私がアフリカに転勤したときにオヤジから貰った手紙に書いてあった「俺の北支の三年」だ。
 その後、日本はアメリカに対して戦火を開き、大戦争に突入した。工場は忙しくなり、そして敗戦。今度は朝鮮戦争でまた多忙を極め、その次はベトナム戦争だ。戦争のために工場を動かしてきたようなものではないか。
 その工場も、30年近く前に修理船が火事になって12名が焼死し、親会社から取りつぶしになった。オヤジは随分嘆いていた。工場の跡には今は高層マンションが建っている。