ほぼ足りてまだ欲 その先

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玉音放送

 なんたって玉の音ッつうくらいですから、大変なもので、これは天皇陛下の放送を意味しますね。普通玉音放送といったら昭和20年8月15日に「辛いけど、降参だ!」の放送を意味しますよね。なに言っているかわからなかったけれど、どうやら戦争は終わったらしいとみんながいった、あの放送です。
 しかし、昭和天皇はもう一回ラジオで放送をしています。それが昭和21年5月24日のことです。同じ録音が三回流されたそうですが、なんの放送だったかというとこれです。

 祖国再建の第一歩は、国民生活とりわけ食生活の安定にある。戦争の前後を通じて、地方農民は、あらゆる生産の障害とたゝかひ、困苦に堪へ、食糧の増産と供出につとめ、その努力はまことにめざましいものであつたが、それにもかゝはらず、主として都市における食糧事情は、いまだ例を見ないほど窮迫し、その状況はふかく心をいたましめるものがある。
 これに対して、政府として、直ちに適切な施策を行ふべきことは言ふまでもないのであるが、全国民においても、乏しきをわかち苦しみを共にするの覚悟をあらたにし、同胞たがひに助けあつて、この窮況をきりぬけなければならない。
 戦争による諸種の痛手の恢復しない国民にこれを求めるのは、まことに忍びないところであるが、これをきりぬけなければ、終戦以来全国民のつゞけて来た一切の経営はむなしくなり、平和な文化国家を再建して、世界の進運に寄与したいといふ、我が国民の厳粛かつ神聖な念願の達成も、これを望むことができない。
 この際にあたつて、国民が家族国家のうるはしい伝統に生き、区々の利害をこえて現在の難局にうちかち、祖国再建の道をふみ進むことを切望し、かつ、これを期待する。

 食糧が枯渇して、米寄越せデモ、5月19日の食料メーデー等が起きて重大な局面を迎えていたらしい。なんせ、このあと昭和天皇マッカーサーに会って、食糧の援助を依頼したという。今朝のラジオ深夜便での保阪正康氏の再放送で知る。
 驚くべきことにラジオの「尋ね人の時間」は昭和37年まで続いたのだそうで、だから私が聴いたことがあったのだとわかった。
 ところでマッカーサー昭和天皇が初めて顔を合わせたのは昭和20年9月27日のことでこの時三枚の写真が撮られている。最後の三枚目に撮った写真が今公開されているあの写真なのだそうだけれど、実は日本の新聞社が直接掲載したものではない。
 当時はまだ大日本帝国憲法下であって、そんなことをしたら不敬罪に相当した。海外の新聞から回ってきたというかたちになったが、未だに報道の自由がないことを知ったGHQが慌てて(かどうか知らないけれど)報道の自由を告知したという。尤も、このあとGHQは全くのフリーにしたわけではない。
 「詔書 国体はゴジされたぞ、朕はタラフク食ってるぞ、ナンジ人民飢えて死ね、ギョメイギョジ」とプラカードに書いた松島松太郎は現実に不敬罪で逮捕され、名誉毀損罪で実刑判決を受け、昭和22年6月28日東京高裁が「不敬罪だが日本国憲法の公布にともなう大赦令で免訴」との判断したとウィッキペディアに書いてある。最後の不敬罪だというのだ。