ほぼ足りてまだ欲 その先

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偶然

  これまでの人生で一番驚いた偶然というのはもう半世紀以上昔のことで、これ以上の偶然というものにはほとんど遭遇していないような気がします。
 それは中学三年の時のことなんです。
 私は横浜で小学校に入学して、4年生の二学期から静岡県清水市(今はなんと静岡市に吸収されちまって、清水区なんていっています)の三保にある小学校に転校しました。その時に、横浜の小学校で少なくとも3年生の時から同級生だった女子から手紙を貰いました。今から考えてみると当時はほとんど小学校の同級生から手紙を貰うなんて事はありませんでしたから、驚きましたねぇ。尤も向かいの丘にあったその同級生の家には一二度遊びにいったことがありましたから、親しかったのかも知れません。
 その手紙にはお父さんの転勤でシンガポールに引っ越すとしてありました。商社勤務だったというようなことだった気がします。彼女には二人のお兄さんがいて、同じ小学校に通っていたのですが、上のお兄さんは何かの事故で急死したような想い出があります。ひとしきり学校では噂でした。朝礼が終わって校舎へ隊列を組んで行進曲に合わせて行進するものでしたけれど、そのお兄さんは長身で格好良かったことを覚えています。
 私はその後、清水市内の他の小学校に6年生の初めから転校します。中学校進学の時に、静大の付属中を受験して失敗します。そして東海大の第一中学に進学しますが、一年生を終えて、上の姉が大学受験に失敗して浪人をしたいというので、父親だけを残して(つまり単身赴任)母親と姉二人とともに横浜へ戻ります。
 どこの中学校へ転校するのかと思っていたら、学区の中学ではなくて、関東学院の三春台の編入試験を受験させられました。ところが合格通知が来ても、母親が入学手続きをしません。一体どうするんだと思っていると、おまえは大田区の中学に入る、というのですよ。
 始業式の日に前の中学の制服のまま行ってみると、とんでもなく大量に生徒がいる公立中学でした。なにしろ中学二年生のクラスは16もありました。しかも、教室の中は机だらけで後ろなんぞは通路もありません。二階建ての木造校舎に入りきれなくて、校庭にプレハブの校舎が建っていました。
 N組という数学の教師が担任のクラスになりました。ホームルームの間に机の中に入れた東海一中の学帽にまかれていた白線を密かに外しました。そのままでは目立つと思ったからです。そのクラスにはもう一人転校生がいました。彼女は小倉の西南女学院中学校から転校してきたそうで、頭の良さそうな眼鏡をかけた子でしたが、やっぱり制服が目立っていました。(どうも彼女は風の噂では10年前に早逝されたようです)。
 この中学にはどうしてこんなに生徒がたくさんいたのかというと、区内はいうに及ばず、都内だけでなく、隣の川崎どころか、私のように横浜から、そして一番遠いのは大磯から越境して通っている生徒までいたのだから驚きます。つまり、公立中学でありながら有名高校への合格者をたくさん出していたのです。当時学区だった日比谷高校に毎年30名ほどが合格していたそうです。
 中学三年生のいつ頃だったか、良く覚えていないのですが、まだ冬制服だった頃に隣の組だったかの近藤君(下の名前はもう覚えていない)が女子生徒と喋っているところに遭遇したら、その女子生徒が、まごう事なき、あの小学校4年の時に手紙をくれた女子だったのです。驚いた私は何も言えませんでした。あとで、近藤君にさりげなく、「あの子は誰?」と聞いたら「シンガポールから帰ってきて二年生に編入した子なんだが、本当は俺たちと同じ歳なんだよ、うちの近所に引っ越してきたのさ」というのです。こりゃ間違いない。しかし、まるで自分の彼女のような近藤君の口ぶりに私はまったく反応することが出来ませんでした。つまり、それっきりです。
 昔の中学生ながら、都会の中学生は今から考えてみると、生意気でしたねぇ。私は都立の第一志望に(またまた)失敗し、私立の第一志望にも失敗。私立のいわゆる滑り止めには受かったものの、都立の学区内合格者対象の高校に進学します。近藤君は埼玉の私立大付属高に進学しますが、大学への推薦をとれず浪人します。同じく浪人した私(ここでも失敗)が、(結局入学した)大学の入試を受けに行くと、その大学の附属高校に通っていたにもかかわらず、推薦をとれなかった近藤君がまったく同じ受験教室にやってきて再会します。これも今から考えてみると、とんでもない偶然です。彼はこの試験にも失敗してしまい、今度は私の、既に他界してしまった幼馴染みと同じ大学に行きます。
 不思議な縁なのですが、これもどこかに書いておかないと、もう忘れてしまいそうです。