ほぼ足りてまだ欲 その先

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佐藤千夜子

 山形県天童出身で1920年代後半にデビュー。普連土女学校(現:普連土学園)出身だという。普連土学園は1887年(明治20年)、当時アメリカ合衆国に留学中だった内村鑑三新渡戸稲造の助言で、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアのキリスト友会(クエーカー)の婦人伝道会が女子教育を目的として創設したという。「波浮の港」「東京行進曲」。1930年イタリアへ渡る。1934年帰国するも既に芸能界に居場所なく、戦時中は慰問に行く。戦後はまったく忘れられた存在で、不祥事をいくつか起こす。1968年(昭和43年)12月13日、がんのため東京都立大久保病院で死去。享年71。生涯独身。
 実は保阪正康は晩年の彼女を取材したことがあるという。彼が朝日ソノラマの社員だった頃のことだ。都内の質素なアパートに暮らしていた。しきりにイタリア時代のレコードを引っ張り出しては聴かせたのだそうだ。まったく風采の上がらぬ雰囲気で、保阪正康はいわれて話を聞きに来たものの、早く終わって帰りたいなぁとばかり思っていたという。かつては大ヒットを歌った歌手でありながら、著作権なんてものには疎かったというか、周囲も説明しなかったのだろうけれど、一発売りだったのかも知れない。ウィキペディアにも晩年は気の毒な状態だったらしく書かれている。