ほぼ足りてまだ欲 その先

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大学

 戦後のGHQによる6-3-3-4制への移行が間違いの元。
 それまでの日本の教育制度ではほぼ大半の日本国民は尋常小学校、高等小学校止まり。中学に進学するのは金持ちか、あるレベル以上の子ども。篤志家と云われる人たちが才能のある子どもを援助した。これは極端な教育格差制度だった。大学に行くなんて、金持ちか、秀才だ。各種専門学校へ行くのがその次の選択だった。商業、工業、学校の先生になるといった専門学校があったんだろうと推察している。女性のほとんどは裁縫や料理のような良妻賢母を育てるという名目の女学校だった。
 それが戦後の教育制度の大幅な変換で一本線になった。高校まではもはや一直線だ。それでも1960年代の高度成長期には中学卒業、あるいは高校卒業での就職率はかなり高かった。多分統計は数字で出ているだろう。印象では私が中学を卒業した1963年でクラスから就職していったものはクラスの一割ほどいたような記憶がある。
 高校を卒業したのは1966年だけれど、私の高校は元はといったら高等女学校だから女子が多くて、女子の半分近く、全体の三割は高校を卒業して就職した。
 文科省の調査によると、昨年度の全高校卒業者で就職を希望したものは18%ほどである。
 これが欧州へ行くとかなり異なる。多分豪州、NZでも似たようなものだろうけれど、医者、学者(つまり研究者)等は大学へ進学するが、その他の職業に従事しようとするような人たちは大学へ行かずに、専門の学校へ行く。
 スイスにいる親戚の話を聞くと、銀行やら、企業のクラークとして働いている人たちの中に大学卒はいないというのだ。実業を身につけていれば良いんだから、それで良いんだという。
 テレビを見ていたら、今の日本の大学の学食はイメージ一新なんだぞと云う。某私立大学の学部長が出てきてコメントするには、どこかとがったところがあって、それが目印になって学校の中身を知って貰えればと云っていたけれど、そんなにまでして減少する学生を取り合ってまで延命を図る大学に一体何の意味があるって云うんだろうか。学食はまずくて良いといっているわけではない。旨いに越したことはない。しかし、研究環境で競ってくれよ。
 学生の研究にいつでも応えられる環境を競ってくれよ。駅伝や野球で競わなくても良いから、図書館の開館時間、閲覧資料の豊富さ、資料検索の便利さ、研究棟の利用時間、実験室の利用しやすさで競ってくれよ。