ほぼ足りてまだ欲 その先

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本当は

 江戸時代の事に詳しい落語家によると、江戸の下町というものはどうやら日本橋から京橋にかけてのあたりの事をいったんだそうで、それ以外を下町とはいわなかったんだそうだ。
 それを聞いて嬉しそうにしていたのは京橋の生まれの人たちで、得たりやおうと喜んでいた。挙げ句の果てに「浅草なんてなぁ、ありゃ田舎だよ」とまでいっていた。そりゃそうだろう、あの辺は浅草田んぼといっていたんだから。吉原が今の場所に移ったのは火事になって、それを機会に徳川幕府があっちに移転させ、新吉原といったというのはよく知られた話だ。
 観音様のご本尊だって、三人の漁師が網に掛かった小さな観音様を引き上げたところから始まっているわけで、その当時はそれほどのんびりした場所だったわけだ。それに引き替えて日本橋といったら大根河岸ってったくらいだから賑やかだったはずだ。
 そういえば今の横浜といったら東側も西側も様々なショッピング施設が集まっていて、駅の中に入ると、いつだって、ワンワンと人が沸き上がるように歩いているけれど、昔は静かなものだった。西口は元々は出口なんぞなくって、東口は立派な駅舎で中に入ると高い天井に音が響いていたが、駅の周りはといったら崎陽軒が建っているくらいの事だった。なんてったってかつての横浜の盛り場といったら、桜木町、それもあの駅からやや歩かなくちゃならない、伊勢佐木町だし、馬車道だった。だから、横浜駅なんてのは何にもなかった。西口は相模川から砂利を運んでくる相模鉄道の砂利置き場だった。時間を限って、仮設のような改札口が開く程度だった。そこへ高島屋が何を考えたのか、高島屋ストアーを作り、裏にローラースケート場があった。で、西口名店街という名前でアーケード街ができ、高島屋がストアーではなく百貨店になり、岡田屋ができて、東急ホテルが建ち、ダイヤモンド地下街が掘られて駅ビルが建った。こうなると東口なんていった事もなくなった。
 私が大学生だった頃に友達が遊びに来たりすると、もっぱら元町、中華街へ遊びに行った。西口に来た友達が「仙台と良い勝負くらいなのかなぁ」といったのが印象的だった。そう、まだ田舎の街という雰囲気だったのだ。