昨日は3年振りくらいに姉の一家とうちの家族で合同の会食を横浜の中華街でやろうじゃないかということになった。3年前というのは実家を壊して姪っ子家族の家ができた時にみんなで集まって以来だった。
子ども同士は11-12年くらい前、うちのおふくろの葬儀の時以来だという。そうか、そんなに経っていたのか、とまずうちの5人で墓にいってきた。金沢八景の駅を降りたら、なんと駅前の小さな商店街はすべて撤去されていて、工事中だった。一体あの人たちはどこへいったのか、そしてこのあとはどうなるのか。
そんなことをいいながら信号を渡ろうとしたところにバスが来て、出ていきそうだった。信号が変わるやいなや子どもたちが走っていって、待っていて貰うことができた。
ちょっと盛りは過ぎていたけれど、霊園の桜の花がまだ少し持っていて、こんな時期にやってきたのは初めてだったけれど、それだけいつもに比べたら人がたくさん来ていた。
横浜中華街にやってきたら、噂には聞いていたけれど、驚くほどの人で、あふれかえっていた。若い人たちが多分デイトにも来るようだし、週末でもあるから、家族連れで沸き返っていて、小さなテイクアウトの店があちこちに出ていて、いやはや、昔の中華街なんかの比じゃない。あの頃はまだのんびりしていて良かったというしかない。
45-6年ほど昔、まだ学生だった頃、出入りしていた団体から頼まれて、欧州からやってきている若者たちと交流をしてくれといわれ、私と二つ歳下の幼馴染みと二人で、西ドイツからやってきた若者を中華街に案内した。確か、横浜駅から市電に乗って山下公園にやってきて、中華街へ連れて行ったんだと思う。今から考えたら、トラムに乗っていくんだからまったく当たり前だけれど、当時は何だかわざわざ普通の生活を、と意識した。それでだったかなんでだったか忘れたけれど、中華街でランチにしようといった時に、当時の中華街では滅多に普通の日本人は入らないお粥の店にわざわざ入った。彼は「熱い!」といってなかなか食べられなかった。私たちは「そういうのはcat's tongueというだ」なんていっていたけれど、考えてみたら変な英語だったよねぇ。
そのお粥屋なんだけれど、驚いたことに行列ができていて、もっと驚いたことに、2号店も3号店までできていたのだ。いつの間にそんなことになったのだろう。当時は頼み方もわからなかったし、中国の人たちが行くところだからというような考えがあったような気がする。その辺のところが今時の日本人はどんどん直ぐさま要領を得て、あっという間に自分のものにしてしまうところが素早い。
ふと気がつくと、もう私たちがついこの前までのうちの家族の中心世代だったのに、もはや長老メンバーになっているのには驚きを隠せないのだ。